「もうすぐね」
アリスはベットに横たわり、薬瓶をかざした。あのストーカーウサギに無理やり飲まされた怪しげな薬は時を経るにつれて空っぽだった薬瓶を再び満たしていった。この世界で時間を数えることは無意味だけれども、少なくとも短くはない時間をペーターと過ごした。出会いは最悪で、出会ってからも最悪だったけれども、なぜか悪い気はしなかった。
「私は、帰りたいの」
アリスは、一人の部屋に声を出した。だが、その言葉の意味は一体どれを表しているのだろうか。帰りたいという意思なのか、帰らなければという義務なのか、それとも本当に帰りたいのかという疑問なのか。自らに問うたが、アリスには判断がつかなかった。
「これじゃあ、ペーターのことをばかにできないわね」
アリスは、自分のあいまいさに笑った。腹黒ウサギはいつもアリスに好きだと告げる。日常になるにつれて悲しくなるほどペーターの言葉は空虚だった。空虚という表現が適切とは言えないが、意味が深く切実なのに、中身がない。こんなに「好きだ」と告げられるのに不安でたまらない。ペーターも分かりつつあるのか、「好きだ」という言葉がどんどん重くなっていく。
ここまで、言葉が万能でないことを呪ったことはない。そして、ペーターの言葉の意味を考えるほどペーターに引かれていることをアリスは呪いたくなった。
ハートの城に不釣合いなくらい大きな足音が聞こえる。普段ならメイドや兵士の一人くらいいるのだが、今に限ってはペーター一人しかこの回廊にはいなかった。
ペーターはおもむろに足を止めると壁に拳を叩きつけた。誰もいない回廊は、こんな余裕のない自分を見られなくいいという安堵感と誰かいればこの焦りから殺しているという飢餓感をペーターに与えた。
いつもどおり、アリスの部屋を訪ねた。だが、アリスの声にペーターは思わず、ドアを開けようとした手を止めた。
『私は、帰りたいの』
その言葉にペーターの頭の中は真っ白になった。
(アリスが帰る……。)
いつでも自分はアリスのことを一番に考えているという自信はある。アリスが幸せになることが自分の一番の目的であり、アリスの願いを叶えることが自分の一番の願いだ。しかし、アリスを元の世界に返すことだけはできない。この世界で誰を選んでもいい。だが元の世界に返すことはしたくない。
「アリス、あなたは帰るのですか。こんなに苦しいほどあなたを愛している僕を残して」
何度も告げた「好きだ」という言葉は結局アリスには届かないのだろうか。いつだって真剣なのに伝わらない。ペーターの結局はペーターの望みは叶わないだろうか。
ペーター壁に背を預け、胸をかき握った。アリスのことが思うと苦しくてたまらない。この苦しさを見せることができたらいいとペーターは思った。
「僕の胸の苦しみをひとつひとつ数えたらあなたは留まってくれますか」
苦しみをひとつひとつ数えたらきっとアリスはここに留まってくれるだろう。役なしを庇うくらいに優しい人だから。
ペーターは突然笑い出した。奇妙な笑い方だった。この場所にだれかいたら間違いなくおかしいと思われる笑い方。
「アリス、どんなにあなたが望もうと僕はあなたを返すことはできない。あなたは僕のことを理解しようとしなくても、僕があなたを愛していることを知っていてくれればそれでいい」
ペーターは笑いながら苦しそうだった。ペーターの胸の痛みはアリスにしか癒すことはできない。だが、アリスがこの痛みを癒してくれないならせめてペーター自身がアリスを愛すことで癒そう。
ペーターは笑いながら、また来た道を戻っていった。
言葉は空虚なのか。
それは誰にも分かりません。
しかし、この胸の痛みだけは真実でしょうから。
あとがき
ペーターの愛はほかのキャラに比べると、深くて重いですから、一歩間違うとストーカーになってしまいます。しかし、一生懸命なところは伝わったらいいなと思います。