Ehre, dem Ehre gebuehrt.(尊敬が相応しい者に尊敬を)

 

 緑豊かなエプヴァンタイユを一望しながら、リュシアンはため息をついた。
 ターブルロンドの交通の要所、エプヴァンタイユは北と南の物資が必ず通過する。
それゆえに、他の領地とは違った賑わいを見せ、発展を遂げてきた。
 リュシアンはここから見えるこの故郷の姿を一度でも美しいと思ったことはない。
いや、遠い昔、両親が生きていたころはまだ違った見方をしていたような気がする。
あのころはこのような荒んだ気持ちになることもなかったし、周りのものに警戒する必要もなかった。世界は優しく存在していた。
 リュシアンはまた、ため息をつくと遠い北の地を見やった。
 国王レーギスの崩御は思った以上の混乱を呼んだ。
国王の遺児、フィーリアに宰相が剣の制約を拒否し、協会主催のもと王の試練が始まった 。
剣という信頼を勝ち取るという美しい主旨であるが、とどのつまりは権力闘争である。
王女と宰相いう分かりやすい対立のもと新たな既得権を得ようと多くの亡者が参加する。
「どうして、放っておいてくれないのだろう」
 リュシアンにすれば、王女だろうと宰相だろうとどちらでも王になればいいと思う。
ただ、静かに暮らしただけ。それだけが、新たな王に望むこと。
 だが、エプヴァンタイユの地の利から考えれば、王女も宰相もこの地を放っておくことはできない。
他の辺境ならいざ知らず、エプヴァンタイユでは平穏ほど大それた望みはないようだ。
 すでに、王の試練が始まって久しい。
 毎日のように届く宰相からの贈り物や王女派騎士の工作はリュシアンの心をますます憂鬱なものにさせた。
いつ暗殺や決闘を申し込まれるのか、どのくらいの密偵がこの屋敷に入っているのか。恐怖と苛立ちが毎日、ため息という形で増えていった。
 リュシアンはテラスから執務室に戻ると机に置かれた一冊の本を手に取った。
 『直立魚類』と書かれた本は先日訪ねてきてくれた王女に貸したものだ。
 読み終わったらしく律儀に贈り物と手紙を添えて返しにきてくれた。
贈り物はリュシアンの好物のチーズであり、手紙には貸してくれたことの謝辞と本の感想が書かれていた。
贈り物は好物、手紙もリュシアン好みの内容で本の所見から、王女の考えなど事細かにまとめられていて、
いささか出来過ぎたようであったが、それでも熱心に読んでくれたことは感じることができた。
 当初はフィーリアのことをリュシアンは軽蔑していた。
 かわいい顔をして結局は権力を求める。
その辺の大人たちとなんら変わることはない。
 ただ、エプヴァンタイユの領主であるリュシアンに興味があるだけだと宰相と同列なほど警戒していた。
 フィーリアはあるとき、贈り物を手にこのエプヴァンタイユに訪ねてきた。
忙しい王の試練の間、少しでも本拠地を離れるとは自殺行為にも等しい。
有能な執政官が付いているとはいえ、王女の裁可が必要な案件もあるし、
何より本拠地を出るということは暗殺されることだってありえる。
 この王女はリュシアンに敵であるリュシアンに暗殺されることは考えなかったのであろうか。
 宰相支持を表明してるリュシアンは敵だ。
王女を殺せば、リュシアンの立場は強くなる。
 それを侍女と数人の騎士だけで来るとはリュシアンには理解できなった。
 エプヴァンタイユに来たフィーリアはただ、リュシアンと話をしただけだった。
主に自分たちが読む本を。そして、帰り際この本をフィーリアに貸した。

 リュシアンはパラパラと本をめくった。
 本の間からなにかがはらりと落ちた。
リュシアンが床に落ちたものを拾うと、押し花と文字が目に入った。
 『こんな難しい本を読んでいるなんて尊敬しました。
 今度は伺うときはこの本に関するリュシアン君の意見が聞きたいです。 フィーリア』
 二行ほどのことばと以前送った花束の押し花をあしらったしおり。
 これも見えすいたおべっかだ。
 だが、リュシアンはそのしおりを大事に胸に抱いた。
 フィーリアはこの前訪ねてきたとき、一度としてリュシアンの前で王の試練のことは話さなかった。
 剣をささげて欲しいとも、支持してほしいとも言わない。
 このしおりのようにやさしくただいてくれる。
「ねえ、リュシアン君。
 ため息ばかりついちゃだめよ。
 ため息は、幸せを逃がしちゃうから。
 それよりも顔をあげて、そしたら自然とため息はでなくなるわ」
 フィーリアはそういうと微笑んだ。
 いま、どんなに辛い立場であるのにけっして下を向かない。 
 前だけを見て進むフィーリアは、本の中の英雄のようであった。
 そして、リュシアンはその姿に本のなかの英雄以上に尊敬を覚えた。
「フィーリア様、あなたは一体何を望むの」
 リュシアンは胸の中のしおりに問いかけた。
 以前、闇の者がフィーリアは支持が欲しいだけだと告げられたことがあった。
 フィーリアの真意とはいった何だろう。
 ほかの人のようにこの地がほしいのだろうか……それとも。
「フィーリア様、僕はあなたをもっと知りたい」
 リュシアンはペンをとると返事を書く。
 きっとまた訪ねてくれる。
 そのとき、聞こうフィーリアの気持ちを。
 リュシアンは願いを込めて書く。書き出しはもう決まっている。
 
 尊敬するフィーリア様へ、と。