水底クライシス

 

 天は暗鬱な空模様であり、地は雨が降り注ぐ。ターブルロンドは快晴の多い気候の土地ではないが、今日はまるで人々の気持ちを代弁するかのように雨が降り注いでいる。
 王妃フィーリアの死は、国民の中にも一応の感傷をもたらした。王妃は熱烈に国民に愛されたわけではないが、それでも彼女の死は悼まれた。
 「かわいそうな、王女」
 国民は口には出さなかったが、同情の言葉を秘めて献花台に多くの花を投じた。その花は彼女の死を惜しむものではなく、彼女の哀れな生涯を悼んだものであったが。
 通例どおりに葬儀は執り行われ、王宮から数日の喪が発せられた。国王ディクトールは、自室で久しぶりの休養に入った。かりそめであれ、自らの王妃が死んだのだ、夫が葬儀に顔を出さないわけにもいかず、葬儀の準備でここ数日寝る暇もなかった。
 ディクトールは久しぶりに自室の休息をとっていた。彼の自室は簡素であったが、決して貧素とはいえなかった。調度品の数こそ少ないが、その一つ一つの質とセンスは悪いものではない。彼が座っている椅子にしても流行のノーストリリア調のデザインで最高級の黒檀を使ったソファーであり、彼の前にあるテーブルも同様に黒檀を使い見事な彫刻を施したものだった。ディクトールは侍従が置いていったワインをグラスになみなみと注いだ。

 「私は、貴様を招待した覚えはないのだが」
 空気の変化を感じてディクトールは影となっている場所に声をかけた。
 「失礼。いまやあなたに会うためにはこのような手段に及ばなければならないので」
 明かりの及ばぬ場所から現れたのは懐かしい金糸の青年であり、かつて、主君になるはずだったただ一人の王子、フィーリウスだった。
 「私から王座を奪いにきたのか。それとも妹の復讐か」
 ディクトールの探るような言葉とは裏腹にフィーリウスは悲しげに笑った。
 「いいえ。一度、国を捨てた身でもう一度返り咲こうとは思いません。すでにこの国はあなたのものだ。もはや、私が帰ってきてもあなたの治世が揺らぐことはない。今回はあの子のために祈りにきた」
 「どうだか。正統なものが現れれば、それだけで国民も揺らぐ。私は、あくまで代役に過ぎん。現に今でも卑しいものが王についた吹聴して回っているものがあとをたたん」
 ディクトールはワイングラスをもう一つ取り出し、フィーリウスに差し出した。フィーリウスはディクトールの向かいの席につき、グラスを受け取った。ディクトールがワインを注ぐコポコポ音は何かが沈んでいくような音だった。
 「あの絵はどうしたのですか。よく描けている」
 フィーリウスの目を向けた先にあったのは、先日エヴァンジルが置いていったあの絵だった。フィーリアの死以来置きっぱなしで、うっすらと埃が積もっていた。捨てるつもりであったが葬儀の雑務ですっかりと忘れさられていた。
 今は亡き女が微笑む絵が苦々しく、ディクトールはその気持ちから逃れるためにワインを呷った。
 

 古城から連れ帰ったフィーリアが死の淵を彷徨っていることはディクトールの耳にも入っていた。だが、ディクトールは一度として見舞いにも行かなかった。
 あれほど憎んでいたものが死んでくれようとしているのに、ディクトールの心には喜悦など起こらなかった。その反対にディクトールにあったのは恐怖であった。
 フィーリアが死ぬことが恐怖である。
 その事実に気づいたときディクトールは自らの心に絶望した。何度もたわけたことだとあざ笑い、間違いだと否定し、そして、ありえないと怒った。まるで、フィーリアを愛しているかのようで吐き気もした。ディクトールは恐怖と絶望に苛まれながらも、それに決定的に対面することもなかった。幸運なことに彼は王であり、膨大な政務が心と対面しなければならないという問題を避ける逃げ道ともなってくれていた。
 だが、その逃げ道もこの絵によって終わらせられた。この絵がディクトールのもとに来たのはフィーリアの死の三日前だった。その日の最後の謁見者であったエヴァンジルは赤の紗(しゃ)に包まれたものを持参して現れた。
 「陛下、約束のものをお持ちしました」
 エヴァンジルはそう言うと赤の紗(しゃ)を落とした。そこから現れたのはディクトールには予期せぬものであり、目を見張った。そこに描かれていたのは椅子に座り優しく微笑むフィーリアと彼女の肩に手を置き、勇壮に佇むディクトールの二人であった。
 「私はこのようなものを描けと言ったか!」
 「はい。陛下はただフィーリア様を描けと申しました。しかし、それ以外のことを仰せにはなられませんでした。それ故に私は、画家として陛下のお気持ちと願いを描かせていただきました」
 「私の気持ちだと。私がこのような風景を願っていたというのか」
 ディクトールはエヴァンジルの言葉にかなり動揺させられていた。今まで避けてきたものをまさか他人からつきつけられるとは思わなかった。だが、ディクトールは動揺を自覚しながら決して他者にはそれを悟られまいと自らの気力を総動員してエヴァンジルを睨みつけた。
 「依頼人の望まぬものを描いてしまった私は画家としては失格かもしれません。それに対しては弁明も釈明もするつもりはありません。お咎めも甘んじて受けるつもりです。しかし、これだけは言わせていただきます。この絵はあなたの願いとともにフィーリア様の願いだったものを描いたということを」
 エヴァンジルは侍従に絵を渡すとまっすぐディクトールを見据えた。
 「フィーリア様からの伝言です。この絵に関して聞きたいことがあるのなら死ぬ前に私に会いにきてほしいということです。私は決して逃げはしないと」
 エヴァンジルは最後の言葉をいうと謁見の間から退出した。そして聞いたところによると対価も受け取らずその足で王宮を去っていったらしい。結局、ディクトールは作者にこの絵をつき返すこともできず、この部屋に放置することとなった。


 「1つ聞いてもいいですか。あの子は、あなたにとって何だったのですか」
 フィーリウスの声にディクトールは記憶を探ることを中断させられた。その真摯な目に答えるかのようにディクトールはぽつぽつと起こる言葉を拾っていった。
 「あれは私にとって救いであった。生きている間は、愛しさと憎しみを、死んでからは慈悲と後悔を与えてくれた存在だった。あれはこの絵を使って私の生涯が無為なものではないということを証明してくれた。私ははちっぽけな矜持を守るために一番大事なことをしなかった道化であった」
 ディクトールは手で視界を覆った。
 フィーリウスに自らのうちをこんなにも語れるとは思わなかった。そして、ディクトールは言葉にして初めてフィーリアを愛していたことを強く実感し、その死が大きなものであること知った。
 「だが私は、あれが生きている間になにもしてやることはできなかった。今までの人生からどうしても単純にあれを愛してやることはできなかった。私の人生の大半は憎しみのうちあるものであり、素直な言葉をかけてやることは何かに負けてしまうと思っていたからな。最後まで、私はあれに何もしてやれなかった。」
 自分の答えをフィーリウスはどのように聞いているのだろうかとディクトールは思った。単純なこともできぬ男の哀れな言い訳としてでも聞いているのだろうかとフィーリウスの顔を伺った。しかし、フィーリウスの表情からは何も伺うことはできなかった。
 「私は兄としてフィーリアを愛してくれたことを感謝します。確かにあなたがフィーリアにした所業はひどく、それを許すことはありません。だが、私はフィーリアがあなたを憎んで死んだとは思っていません。なぜか私は、フィーリアがこの絵のように微笑んで幸福なうちに死んだような気がします」
 フィーリウスの言葉はやや悲しさを含ませていた。それはもっとお互いに素直になればこのような結末にはならなかったのではないのだろうかというフィーリウスの感傷によるものであった。
 「ディクトール、フィーリアは死ぬとき泣いていませんでしたか」
 「ああ、泣いていた。そばにいてほしいと言われたので、そのとおりにする告げたあと泣いていた。そのまま息を引き取ったしまいおって、私は一つしか願いを叶えてやれなかった。私はいつも泣かせてばかりでこのような顔をさせてやることはできなかった」
 ディクトールは皮肉げに笑った。
 フィーリウスはすべてに満足したようにワインを飲み干した。そして、現れたときと同じように明かりの及ばぬところに去ろうとしていた。
 「ディクトール、フィーリアの願いを叶えてくれてありがとう。フィーリアの人生は短く、幸せだとはいえなかったけれどもあなたに愛されていたことをフィーリアは最後のわかることはできたと思う。私は、フィーリアが愛されていることを知りたかった。もはや、フィーリアの気持ちは聞くことができなかったけれども、あなたの気持ちは痛いほどわかりました」
 フィーリウスはあの絵に目を向けた。
 「最後に、この絵はとっておいてもらえませんか。これは兄としてのお願いですが」
 「ああ、いいだろう。厳重に保管させてもらおう」
 ディクトールの答えを聞くとフィーリウスはまた闇の中に帰っていった。フィーリウスの気配が消えた方向にディクトールは目を凝らしたが、もはやそこには誰もいなかった。