幸福インシデント


 長い冬が終わり、ターブルロンドにも春が訪れていた。白き雪は消え、大地が顔を出し、草木は新たな生命を息吹かせていた。人々は春の訪れを喜び、そして新たなる始まりに胸を躍らせていた。
 ターブルロンドの女王フィーリアもその春の訪れを待っていた一人だった。先年からの王の試練が終わり、やっとのことで即位した後の一年は、忙殺の一言に尽きた。一年間、王が不在なだけで棚上げとなっていた法案、計画、人事などを処理するだけで日々が過ぎ去った。多くのものが逃げ出したくなるような政務をわずか二十歳にも満たぬ少女は文句も言わず、粛々と政務をこなし、王宮のものを驚かしていた。
 だが、その強靭な精神の持ち主のフィーリアはここ数日様子が異なっていた。政務に相変わらずぬかりも手抜きもないが、どこか気がそぞろで時折窓の外を眺めてぼんやりとすることがあった。
 「姫様、そろそろ休憩にしましょう」
 突然かけられた声にフィーリアはびくっとさせた。
 「ええ、そうするわ。区切りもついたことだし、この書類で最後にするわ」
 フィーリアはごまかすようにあたふたと書類を片付けた。エクレールは紅茶をテーブルに用意し、付け合せのお菓子を並べた。
 「姫様、もうすぐ春ですわね」
 「そうね。去年は、忙しすぎて花を楽しむ余裕もなかったけれども、今年はそれくらいあるかもね」
 「そうですわね。きっとあの方からも『今年はこちらも落ち着いたから、花を眺めるくらの時間は取れよう』なんてお言葉ありましょうから」
 「エクレール!あなた手紙を見たのね」
 「いいえ、見ていませんわ。そのような無粋なことはいたしませんが、まさかこのようなありきたりな言葉を寄越すなんて仮にも一国の王としての創造力をうたがいますわ」
 エクレールは想像どおりなことに憤慨していた。フィーリアはそっと窓の外を見やった。

 

 あれは、王の試練が終わってすぐだった。イリヤが祖国グラニに帰ると告げにきたときフィーリアは泣いてしまった。
 分かっていることだった。イリヤには帰る国があり、やるべきことがあることも同じ為政者としてフィーリアは理解していた。だが、恋人に去られて毅然としていられるほどフィーリアは大人ではなかった。為政者としての矜持からイリヤの選択を責めることはしなかったが、恋人としての心から泣くことは止められなかった。
 「フィーリア、すまない。グラニで俺にはやるべきことがある。お前を残していくのは気がかりだが、わかってくれ」
 イリヤはフィーリアを抱きしめた。フィーリアはただイリヤの胸のなかで泣いた。イリヤはポケットから小さなスミレを出した。
 「言葉は言わんが俺の気持ちはこの花にこめている。きっと迎えにくるから」
 顔を赤らめてイリヤはグラニに旅立った。



 あれから一年たった。お互いに国の建て直しという大事に力を傾けた。そして、先日一通の手紙が届いた。ぶっきらぼうな書面に思わず微笑んだフィーリアだが、最後のこう書かれていた。
 『今年は落ち着いたから、お前に会いにいく。今度は野一面のスミレを見に行こう』と。
 「ねえ、イリヤ。早く会いたいわね」
「なにか言いましたか、姫様」
王族としての心がまえまで語っていたエクレールは不思議そうな顔をした。
 「いいえ。ただ春が待ちどおしいだけよ」
 もうすぐ聞こえる足音を待ちながら。


あとがき

 珍しく不幸な話にならなくてほっとしています。スミレの花言葉は真実の愛だそうです。