断絶クロニクル2

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 五年ぶりに王宮の真の主が帰還した。民草から貴族に至るまでフィーリアの帰還は奇異なこととして捉えられた。
特に反国王派は、フィーリアの帰還を好機と捉え、これを機にディクトールを追い落とそうと考えた。
しかし、それが夢であったことは、帰還後の謁見の間でフィーリアの姿を見た瞬間にすべての人が悟った。
 死相。
 これがはっきりとフィーリアには表れていた。
 (もはや王女は長くない。それゆえに、ディクトールは彼女を連れて帰ったのか。)
淡い期待を抱いた貴族は、もはやディクトールの治世が、王族などに覆すことが出来ないことをこのとき示された。
 帰ったフィーリアは、あまり回復しなかった。
イシュメール帰還後すぐのあいさつ以来、フィーリアはベットの住人となっていた。
貴族たちは見舞いを兼ねた面会を希望した。
だが、王女の容態をは悪化の一途をたどり、とても面会に応じる状態ではなく、
それゆえ、謁見の間での帰還報告以来、彼女の姿を見た者はいなかった。
 その間、医師たちは懸命に治療したが、ただほんの少しだけ彼女の命数を延ばすことしかできなかった。
 そして、刻々とフィーリアの命のともしびは尽きていた。

 そんなある日、フィーリアのもとに懐かしい人物が尋ねてきた。
 それは、五年前、フィーリアの騎士を勤めたエヴァンジルだった。
エヴァンジルは王の試練の後、ターブルロンドから離れていた。
一つは、宰相から逃れることであり、もう一つは、絵の修行に行くためだった。
 フィーリアは、王の試練が終わるとき多額の金をエヴァンジルに渡していた。
万が一負けたときの逃亡資金として、そして今までの報酬も兼ねられていた。
その金で、母の治療費と絵の道具を揃えるのに当て、そして残りはノーストリリアでの滞在費に当てた。
さいわい、絵は三年ほどで売れるようになり、裕福ではないものの画家として収入を得ることが出来るようにいた。

 そんな矢先、ターブルロンドの国王、ディクトールから手紙が届いた。
そこには、ある絵を書いてほしいという内容の依頼だった。
 エヴァンジルは怪しんだ。
 ディクトールは本来、実務肌の人間であり、芸術というものに理解のあるたぐいの人間ではない。
国王になった以後、文化行政の一貫としてそちらの方に関心がでたのかもしれないが、
わざわざ元王女派の騎士崩れで、かけだしのエヴァンジルに依頼する必要もない。
そんなことをせずとも、ターブルロンドにも著名な画家はたくさんいる。
 今になってエヴァンジルを排除しようと考えたのかとも思った。
 風の噂でだが、王女がイシュメールに帰還したと聞いた。ディクトールのことだ最後の草刈りでもやろうとしているのかとも考えた。
 だが、エヴァンジルを始末するにも王宮に呼び出す必要もない。
そんなことをせずとも、有能な暗殺者に依頼すればいいことであり、わざわざこのような手の込んだことをすることはディクトールのやり方ではない。
 怪しいことこの上もなかった。
 しかし、なぜかエヴァンジルはこの依頼を受けた。なぜなら、その手紙と一緒に同封されていた招待状にある懐かしい王女の印章が気になったからだ。

 ターブルロンドについてからまずエヴァンジルは国王、ディクトールに謁見した。
ディクトールは、王女の肖像画を描くように依頼し、それ以上はなにも語らず、ただ王宮内に部屋を用意すると答えただけであった。
 エヴァンジルはディクトールに謁見したその足でフィーリアのもとを尋ねた。ドアを開けると、案の定、侍女のエクレールが付き従っていた。
「ひさしぶりです、エヴァンジル。お元気でしたか」
 五年ぶりに会うフィーリアは美しく成長していた。
 今年で20歳になり、女としてこれ以上にないほど咲き誇っていた。
最後に会った時と同じく、あどけなさを残しつつも、だが大人の女性特有の息を飲む空気、例えるなら、まるで名画を前にする興奮をエヴェンジルは感じていた。
 紫色の生地を基調に上品にあしらった白のフリルのドレス―アデールハイドを身に纏い、訪問者エヴェンジルをその目に捉えている。
 エヴェンジルの回顧録はこのときのことこう書き残している。
『名画の美女が自らに微笑んでほしい、その目に私をとらえてほしいと思った人は多いだろう。私もそのひとりである。
 私は生涯を通じて、多くの人を描いた。その中でもフィーリア王妃のことは忘れることはできない。
 あの瞬間、私はその願いを叶えていた。私をその目に捉えられ、彼女に認識されているのだと』
「エヴェンジル、そのようなところにいないでこちらに掛けて」
 エヴェンジルは、フィーリアの声に引き戻された。
まるで、初々しい少年の気持ちでフィーリアの前に立ち、そして、彼女の姿をあらためて確認した。
 (噂は本当だったのか……)
 エヴァンジルは同時に、ターブルロンドに来てから聞いていた噂は本当であると知った。
 『もはや、姫は長くない』
 この国でまことしやかに囁かれていること。それは、もはや自明であった。
 
 この国にきた日、たまたま知り合いの貴族にあったのだが、フィーリアのことを尋ねるとまるで夢のことを話すがごとく虚ろなものだった。
 「なんというか、彼女はすでにこの世の住人ではないという印象だね」
 「なんだそれは」
 「う〜ん。言葉で言い表されない存在というのかな。
例えるなら、シジェルの門というのは誰でも知っているけど、その形態を言葉でいうことは誰もできない。
 というか、それ自体無意味な行為だろ。王女もそういうことかな。
 彼女はおそらく死ぬ。それは決まったことだらから、貴族にしても今さら彼女の利用価値なんてない。
 彼女に近づいてあの国王に睨まれるだけだしね。でも、彼女に利用価値がないからこそ、彼女が死ぬからこそ、彼女に近づきたいのかもしれないね」
 エヴァンジルはそのような抽象的感想に肩をすかした。しかし、その行動を相手は咎めることもなく、そうだねと付け加えただけであった。
 「君も逢えばわかるよ。今、おそらくこのときが最も、我々において彼女自体の存在を考えるときなのだろう。
 君は幸せ者だね、エヴァンジル。彼女の存在を考え、そしてその考えを公然と表現できるのだから」

 そのときの言葉は今になってようやくわかった。
 フィーリアは、来客のため身なりを整え、椅子に座っていたが、その腕の細さ、顔色、そしてたびたびする咳が彼女の死が近いことをものがたっていた。
「おひしぶりです、殿下。相変わらずお美しい」
 そういうと、エヴァンジルは跪いた。
初めて会ったときと同じく、フィーリアの手をとり、手の甲に口付けをした。
「今日は、国王陛下からのご依頼で当代一の美女の肖像画を描くようにと言われました。
僭越ながらこのエヴァンジルにフィーリア様の肖像画を描かせていただきたい」
 いつもなら、世間話をしてから話を切り出すのだが、その世間話の時間すら惜しかった。
一秒でも無駄にしたくなかった。彼女の美しさをどんな形であれ留めて差し上げたかった。
 「わかりました。国王陛下のご命令なら従います」
 「姫様!」
 エクレールは抗議の声を上げた。
 エクレールの抗議をフィーリアは制した。フィーリアはにっこりと微笑みエクレールの言葉を封じた。
 その笑みは、五年前になかったものであった。
 「今日から、というのはさすがに無理です。明日から準備しておくので、また明日お越し下さい」
 フィーリアの返事を聞くと、エヴァンジルは早々に席を辞した。

 エヴァンジルが去ってすぐ、崩れるようにフィーリアは身を伏せた。
 エクレールはすぐさま水を飲ませ、フィーリアをベットに運んだ。
起き上がることも今のフィーリアには多大な体力を消費させる。まして、絵のモデルになることなど自殺行為である。
 「姫様、いまさらになってもなぜあの男の命令を聞くのですか」
 エクレールは、ディクトールの理不尽さを憎んだ。
五年もの間、フィーリアを放置し、体調が悪くなれば無理やり連れて還り、そして当然のように命令するのは許せなかった。
 フィーリアは王宮に戻ってからも愚痴の一つも言わなかった。もはや、フィーリアは生きることにさえ諦めてしまったのだろうか。
 「エクレール、私はどのようなかたちであれ復讐したいのです」
 不意に答えられたフィーリアの言葉は、エクレールが思っていたより残酷なものでショックをうけた。
 「姫様は、エヴァンジル殿を使ってどのように復讐するおつもりなのですか」
 エクレールは、フィーリアに至極当然な質問をした。しかし、フィーリアその質問には答えることはなく、静かに目を閉じ眠りに落ちた。
 エクレールはのちのこの答えの続き聞かなかったことを後悔することとなった。


 エヴァンジルは翌日から毎日のようにフィーリアのもとに通った。
 フィーリアの容態はもはや予断がゆるすものではなかった。
 肺を病み、呼吸困難に陥ることが多く、その上、吐血もひどくなった。
しかし、エヴァンジルのモデルとしているとき、フィーリアは毅然と椅子に座り、ときには笑い、まるで五年前にときが戻ったようであった。
 だが、絵が完成する直前、フィーリアの容態は急に悪化した。
面会謝絶となり、何人もの医師が入れ替わり立ち代りをして、フィーリアの看護を続けていた。
 フィーリアに拝謁が叶わず、帰ろうとしたエヴァンジルはエクレールに呼び止められた。
「エヴァンジル殿、絵はいつ出来上がるのですか?」
 絵のモデルになることを反対していたエクレールが絵の進行状況を尋ねてくるとは思わなかった。
「もうすぐ、完成なのですが。もう一度、殿下にお会いしてから仕上げに取り掛かりたいのですが」
「お願いです。なるべく早く絵を完成させてください。もう姫様は……」
 長くはない。
 その言葉をエクレールは飲み込んだ。
 どんなに虚勢を張ってもフィーリアが回復する見込みはなかった。
ここ数日、フィーリアの意識は戻らない。このまま、安らかな眠りにつかせてあげたいと思うこともある。
 ただ、あの絵を姫様に見せて差し上げたいとエクレールは思った。
どのような絵を描いているかは知らない。それを知っているのは、モデルのフィーリアと画家のエヴァンジルだけだ。
絵を描いている間は、集中したいからと言ってエクレールでさえも同室することはできなかった。
「わかりました。お会いしてから仕上げに取り掛かるつもりでしたが。貴婦人を待たせるのは、男の沽券に関わるもの。なるべく、早くお見せできるようしたいと思います」
 エヴァンジルは胸を叩き、エクレールに約束した。
エクレールは、去っていくエヴァンジルを見つめていた。
その手に持つ布に包まれたキャンパス、フィーリアの復讐となるものを。
 フィーリアのいう復讐とは一体なんなのか。
絵ごときで復讐できるとはエクレールは思わなかった。
しかし、最後にフィーリアの思うことを果たしてあげたい。それがエクレールの望みであった。

 それから数日、フィーリアは意識を取り戻すことはなかった。
フィーリアが病に倒れてから四ヶ月が経ち、春が訪れようとしていた。
未だ、寒さが残るため、部屋には薪が焚かれ、暖をとっている。
 しかし、エクレールの心情は窓の外のように寒く凍えていた。
いつ冷たくなってしまうかもしれない手を握り締め、その恐怖と戦っていた。
「エクレール。そこにいるの」
 寝台に横たわるフィーリアの瞳が久しぶりに開かれた。
「姫様。ご気分はいかがですか」
「ええ。いい気分よ。まるで夢を見ているみたいに気分がいいの」
 久しぶりに見るフィーリアの笑顔にエクレールは微笑んだ。
「それならもう心配ありませんわね。きっと病は治ってしまわれたのでしょう。
姫様は医師の力も借りずに治ってしまわれましたから、明日にも医師たちは失業してしまいますわね」
 そうねといってフィーリアは笑った。
 コンコンとノックの音がした。
エクレールは看護婦が換えのタオルをもってきたと思い扉を開けた。
そこにいたのは、フィーリアを城に連れ帰った以来、姿を見せなかったディクトールだった。
「よくも姫様の前に現れることができましたね」
 エクレールは憎しみの目をもってディクトールに吠えた。
 しかし、ディクトールはエクレールを無視して部屋の中に入ってきた。
そして、先程までエクレールが掛けていた椅子に布で包まれたものを置いた。
「これは、お前の仕業か」
 ディクトールは布を取り去った。
 さらりと布が落ちる。
 そこに現れたのは、一枚の絵であった。フィーリアが椅子に座り、ディクトールがその隣に立つ肖像画。
「……エヴァンジルの絵は出来上がったのですね」
 フィーリアは満足そうに絵を眺めた。