最高の夜明けを

 
「まだもう少しだけ」
 傍らに座る女性は、男の手を取り、差し込む東日を眺めていた。
 その言葉に反応し、ディクトールは、重い瞳をあけた。
 ディクトールと目が合うと、フィーリアは「まだ夜明け前ですわ。もう少しお休みになって」と言い微笑んだ。
 そうだなとかすれた声で答えた。
 (もはや、声まで失おうとしているのか……)
 とディクトールは呆然となった。
 ターブルロンド国王、ディクトールは今年御年、60。在位10年を数えていた。
 後世の歴史書、『ターブルロンド国書』には、王家以外の人間が国王となった事例として挙げられ、
 優れた治世や数々の功績は、多くの先例として語り続けられることになる。
 そのように語り継がれるディクトールに死が訪れようとしていた。
 すでに60を数えており、十分に人生を生きたと本人も自覚している。
 無論未だ王として、やりたいこともしなければならないこともあるが、寿命として受け入れる覚悟もある。
 だが、妻フィーリアの顔を見て、その諦観は揺らぎつつあった。
 (まだ死にたくはない)
 ディクトールに去来する思いはそれだけだった。
 諦観も覚悟も彼女の前ではこうも容易く崩壊する。
 それは、彼女が自分の妻になるときもそうだった。
 妻、フィーリアは、ターブルロンド王家の王女であったが、王の試練に負けたために、ディクトールの伴侶となった。
 勝利による結婚。
 それは、政略結婚以下のものだとディクトールは今になって考える。
 力ずくで、女をものにするのだ。
 それが、人々から非難を得うるものだと十分承知している。
 だが、ディクトールは、フィーリアを愛してしまっていた。
 いくら理性的に考えても彼女を開放することは出来なかった。
 親子ほどの年の差を抱え、もはや老い先の短い自分。
 フィーリアを王族から開放し、相応の相手と幸せしてやるほうがフィーリアにとっては最善となると何度も言い聞かせた。
 しかし、無理だった。
 もはや、彼女の不幸など目に入らなかった。 
 結婚を告げたとき「愛せとは言わん。しかし、私はお前を愛している」と言った。
 このとき、この愛が報われるとは思わなかった。
 彼女が自分をかえりみ、そして愛すなどということはおそらく妄言のようにディクトールには思えてならなかった。
 しかし、フィーリアは、ディクトールを愛してくれた。
 いつもそばに寄り添い、そして二人の子供までもうけた。
 まだ、幼いわが子。それも心残りだ。
 8つになった息子は父親の死をわかっていたが、
 3歳の娘は、いまだ父親が死にゆくことを理解しておらず毎日見舞いに来ては、「はやくよくなってね」とせがんだ。
 「哀しそうな顔をしないで、まだ夜ですわ。まだ、夜は明けていませんわ」
 フィーリアは、ディクトールの心境を感じたのか泣き出しそうであった。
 彼女とのひと時は、夜のひとときのように決して長いものではなかった。
 王となってから政務に忙殺され、フィーリアと過ごした時間はかぎりなく短い。
 10年という年月の中で、一体どれだけの時間をフィーリアと過ごすことができたのだろうか。
 フィーリアは、ディクトールの汗を拭うと悲しそうに外を眺めた。
 暗闇から明けゆく空をフィーリアはいつも嫌がった。
 朝になれば、ディクトールは王として政務に出かける。
 わずかなひとときを終わらせる暁時を彼女は、いつも悲しそうに見つめていた。
 その太陽を眺める妻の姿を何度美しいとディクトールは思っただろうか。
 彼女をおいて死ぬことはこれほど哀しいとは思わなかった。
 「ナイチンゲールが鳴いているわ」
 フィーリアはぽつりと言った。
 「いいや。あれはヒバリだ。私を迎えに来たのだ」
 「違うわ。まだ、夜よ。あれはヒバリではないわ。ナイチンゲールよ」
 フィーリアは泣きじゃくりながら、ディクトールの手をとった。
 一度たりともフィーリアはディクトールを困らせることはなかった。
 暁を憾み(うらみ)ながらも決して引き止めることはなかったフィーリアだが、このときばかりは引きとめた。
 そうしなければもうディクトールは永遠に帰ってこないのだから。
 「あなたは、私の夫。ヒバリなどには連れていかせない」
 フィーリアは必死に手を握った。
 ディクトールは、「暁の王」と呼ばれていた。
 まるでヒバリたちが、自らの王を迎えにやってきたように鳴いている。
 「…すまない。私はそなたを泣かせてばかりだな」
 ディクトールは謝罪の言葉を始めて発した。
 一度たりともいうことの出来なかったことば。
 昔、甥に「言いたいことを言わなければ死んだ後に後悔する」という言葉の意味を改めて実感した。
 「フィーリア。夜が明ける。暗闇はもう終わりだ」
 ディクトールは、フィーリアの涙を拭った。
 その涙は、ディクトールの乾いた手を潤した。
 それは、さながら朝露のごとく花々をしっとりと潤すがごときものだった。
 「もう泣くな。最高の夜明けだ。フィーリア、そなたの夜明けだ。黄昏ではない。
 私は死ぬが、そなたはこれから自ら人生を歩め。大丈夫だ。暁は一瞬で終わるが、また朝日は昇る。暁は別れだけではないのだよ」
 語りかけるようにフィーリアに微笑み、そうしてディクトールは目を閉じた。
 もはや姿は見えないけれど、彼女が必死に自分の名を呼んでいる。
 そして、温もりを感じる。死の恐怖も悲しみもそして諦観さえもなく、ただ穏やかな心境になった。
 まるで朝の風になったかのようだった。
 
 『ターブルロンド国書』の第一巻、「暁の王、ディクトール」にはこんな評伝がつけられている。
 彼は旧来の因習を打ち破り、新たなる時代の幕を開けた。
 He broke old convention and opened the curtain of the new times.
 それは、夜の闇の終わりを告げ、人々に目覚めのときを伝えるさながらヒバリのようだ。
 He tell the end of the night darkness, and it seems to be a just skylark conveying time of the waking to people.
 暁はヒバリを連れ、人々に目覚めを告げた。
 He was with a skylark in dawn and told waking to people.
 暁が去った後、ターブルロンドには一輪の気高き薔薇が咲いた。
 One noble rose bloomed in the table ronde after dawn passed.
 その日、薔薇は朝露に濡れるが如く可憐に花開いた。
 The rose was pretty on that day as if I got wet with morning dew and opened a flower.

 その後、フィーリアは「薔薇の女王」と呼ばれることとなる。

あとがき

 お題に書いた宰相×姫とは違って、今度は宰相殿の最後を描いてみました。
 なんとなく夜明けをからめて書こうとして題材を集めていましたら、ロミジュリの一節が思い浮んでちょっとそれぽく使ってみました。
 ロミジュリは逢瀬の別れだけれども、宰相×姫では、甘いだけでは物足りないので、悲恋度をましたところにもってきました。
 はじめはもっとすがすがしい話にしようと思ったのにやはりシリアスになってしまいます。
 やっぱり好みがでちゃいますね〜。
 英訳は翻訳ソフトを使ったのでたぶんおかしいところ満載だと思います。
 ここがおかしいとか分かるかたはぜひご指摘してください。