惨劇の惨劇

 「手は尽くしましたが……、これ以上は……」
 病室から出てきた医者は暗い顔して、他に言葉を持つことはなかった。
 むろん勇も医者の言わんとしていることが嫌というほど分かっていた。
 欧州大戦に従軍した身ゆえ、人の生き死にの判別は誰よりも熟知していた。
 あのときはまだ士官学校を出たばかりの新米で、軍曹であったけれども実際は下士官付きの雑用であった。
戦争も知らない若造であったがゆえ、直接の作戦指揮などないに等しかったが、一旦戦争が始まれば、階級など関係なく命は奪われた。
がむしゃらに目の前の敵を殺し、作戦が終わり帰還すれば、戦友の死を見送る生活だった。
 はるの傷は致命傷だった。むしろ発見されるまで息があった方が、奇跡だった。
 宮ノ杜のかかりつけの医師もはるを見て助からないと言ったが、いくら大学病院の最高峰の医師であってもはるは助かりようもなかったのだ。
「今夜が峠かと……。できるだけ患者さんに声をかけてあげてください」
 医師は勇に部屋に入ることを促すと、二人の邪魔をしないように退出した。
「なにか異変があったら呼ぶように」最後に言付けると静かにその場を後にした。
 勇が病室に入ると、か細く息をするはるが目に入った。失血で顔は青白く、昨日まで元気に勇の世話をしてた影さえない。
 上から下がる点滴がまるで砂時計のようにぽつぽつと落ちている。それがまるではるの命のしずくのようで勇は思わず目を背けた。
 処置を待っている間、勇は自分の判断を幾度となく後悔をした。今までの人生でここまでの後悔を味わったことはない。自分に力がないことを嘆いたことがあったが、後悔などではなかった。はじめて絶望というものを味わっていた。
 なぜ自分は、はるを一人で部屋に返したのだろうか?
 あの暗殺者が宮ノ杜の人間を狙っていることは分かっていたが、宮ノ杜と無関係なただの使用人のはるを害する必要はどこにあったのか?
 そのことばかりを考えていた。
 だが医師がはるはもうだめだと言った瞬間、勇は理解した。
 はるはすでに『ただの使用人』ではなかったのだ。
 かけがえのない唯一無二の大事な人であったのだ。
 勇はそのことに気づくのが遅すぎた。
 その点、あの男ははるが勇にとっての一番の急所であることを見抜いていたのだ。
 あの男の目論見どおり一番大切な人は勇から永遠に去ろうとしている。
「はる……」
 『貴様』ではなく、『名前』を呼ぶ。一言言葉にすれば、愛おしさが増していった。
「はる、はる」
 何度となくその名を呼んだ。そばにあった椅子に座り、点滴が下がる手を握り締めた。
 その手の冷たさに、勇ははっとなった。
 もう一度、かならず会うと約束したが、その願いは叶えられず、終わろうとしているのではないか、勇は不安を消すかのようにはるの名を呼び続けた。
 うっすらとはるが勇の声に呼応するかのように目を覚ました。目を開けたはるはまるで安堵するかのような表情であった。
「勇様、ずっと呼んでいましたか?」
「ああ、呼んでいた。お前ときたら、全く反応せんで。俺が呼んでいるのだぞ、さっさと目覚めぬか」
 はるは可笑しそうに笑った。その消えそうな笑みが儚げで、でも綺麗で勇は涙を抑えるのに必死だった。
「前に勇様が撃たれたときと反対になりましたね。あのとき私は一生懸命勇様をお呼びしていました。だからおあいこです」
「そうだな、そんなこともあったな」
「勇様、お願いがあります。勇様の夢をもう一度聞かせてください」
「……夢か」
 はるは持てる力を込めて勇に縋った。
 最後にはるは未来を所望した。
「俺は宮ノ杜を継いで、この國をよくしたい。大将となって國を率い、西洋諸国に劣らぬ、立派な國にしたい。そこでは努力が報われる、決して虐げられる者がいない社会になっている」
「素敵な國なのですね」
「ああ、そこではお前はずっと俺の隣にいる。俺がどのように國を変えていくのか、それを隣で見せてやる」
 もう勇は涙を抑えることはできなかった。男児が無様に人前で泣くことなどあってはならないのだが、これを止めることは勇の強き心でも成しえなかった。
「はる、お前が好きだ。宮ノ杜も栄達もいらない。ただ……俺の傍で、妻として共にいてくれ」
 はるは勇の告白に目を丸くした。自分は一生結婚しないと誓っていたが、それでも幼少のころ思い描いていた告白とは程遠い、思いのたけをぶちまけたかのようなものだった。
「素敵な夢です。勇様に告白されて、妻にしていただけると言ってもらえるなんて、夢でもうれしすぎます」
「夢でなない。傷が癒えたら、専属を解き、使用人を解雇して、俺の妻に」
 はるが、はるだけが勇の生涯唯一の妻になりえる人であった。
 そのことにもっとはやく気付きたかった。
「はる、お前の花嫁姿は綺麗だろう。落ち着きがないところもあるが、お前と一緒であれば毎日退屈せんだろう」
「そうですね、勇様に似た子を持てたら私は仕合せです。毎日これまで以上に勇様のことだけを考えて……」
 急にはるは苦しそうな咳をした。途端にぜいぜいと息をし、はるの手は勇の手を強く握り返した。まるで離れたくないと言っているようだった。
「い……さみさま、素敵な夢を見せてくれてありがとう。ただずっとあなたの側にいたかった……。きっと使用人なのに勇様を好きになった罰ですかね」
「そんなことあるわけなかろう!」
 はるは最後まで笑っていた。勇のせいで死ぬというのに、恨みなど残さず、晴れやかな顔だった。
 もう声が出ないのか、僅かに唇が動いている。勇ははるの口に耳を傾け、その言葉を聞き取ろうとした。
 別室で控えていた医師や看護婦が一斉に病室に入ってきた。
 はるはまるで吸い込まれるかのように瞳を閉じ、もう二度と目を開けなかった。



 はるの死は秘密裏に葬られた。残された家族には病死と伝えられ、丁重に荼毘にふした。玄一郎ははるの家族に莫大な金を渡し、娘の不審死に一切の異議を唱えぬように圧力をかけたようだ。
 屋敷はすぐに平穏を取り戻した。兄弟たちは多かれ少なかれ変化を免れなかった。
 もうあの使用人に会えないということが各々心に影響を与えていた。
 勇は淡々とはるの葬儀を行った。はるを妻としたかったが、それも叶わなかった。
 ただ小さな墓に浅木はると刻まれているのを見たとき、自分たちは主と使用人としての関係しか残せなかったことが無性に悲しかった。
 はるの死後、勇ははるを殺した者を必死に追った。すでにこの身は帝国に捧げ、心ははると共に死んだのだ。献身と復讐だけが勇を生かしていた。
 もはや何も悩みことなく、未来を見るしかなくなっていた。

 勇ははるの墓に訪れていた。
 始めて会ったころ無邪気に屋敷の庭の花を尋ねたことがあった。
 あのときは無下にして名を教えただけであった。
 その思い出の花、山吹を持って、勇は墓の前に佇んでいた。
『勇様、私……勇様のことをお慕いしていました』
 はるの最後の言葉だった。
 やっと敵の居場所を掴むことができた。あの男は何としても殺さなければならない。
もはや宮ノ杜のためではない。兄弟であることも関係ない。完全に私怨となっていた。復讐の成就のその前にどうしてもはるに会いたかった。
 どんなことをしても奴の息の根は留める。
 この身が死んでも、かならず。
 勇の姿はまるで忠誠を誓う騎士のごとくであった。
 彼の横を風が通り過ぎる。もはや彼には吹くことの幸福の風が。