02 誰も知らない物語 Y 誰も知らない物語

 
「これがお父様の真実?」
 すべてを語り終えた父親に明子は問いかけた。
 いままで隠された家族の秘密を語った父はなんとなく、安堵のような表情をしているような気がした。
 父は自分がいうとおり、人間味が薄い人だったのだろう。
 能力も高く、人づきあいもいい、そして要領もよかった。
 それなのに、人として一番大事なものを備えることはできなかった。
 そう人を愛するということを。
「そのとおり。これが私の真実さ。
 他者の人生を弄ぼうとして、その結果、深みに嵌った哀れな男の話さ」
「その後、勇さんはどうなさったの?」
「大陸で壮絶な最期を迎えたと漏れ聞いた。
 日本男児の見本ようだったそうだ」
 その言葉は一変の曇りもない称賛の言葉であった。
 相容れない間柄でありながら、父はさらりと恋敵の称賛をする。
 父もまたある意味純粋な人なのかもしれないと明子は漠然と思った。
「最近、誠を見ていると、彼を思い出す。
 誠は私を父と信じて疑わないし、尊敬もしてくれている。
 しかしあの子の歩んでいる道は彼の人生をなぞるかのようだ。
 誠が幼年学校に進み、士官学校に行くといったときほど、血というものは怖いものだと思い知った。
 誠は実父の存在を知らなければ、会ったこともない。
 しかし死したる彼はまるで影のように誠の人生に影響を及ぼしている」
 弟の誠は、現在士官学校に在籍している。
 父のような文官ではなく、祖父のような軍人を目指した弟。
 父も母も誠の選択に意を唱えなかった。
 誠は幼年学校に入学するとき、国家のためにこの身を捧げることを許してほしいと父と母の前で手をついた。
 ただ二人とも大変な驚きをもっていたことは明子の記憶に刻まれていた。
 父の話を聞くまで、本当の弟と思っていたが、確かに誠は父には似ていなった。
 父のように要領も良くなかったし、生真面目で一本気なところが強かった。
 顔も似ていなかったが、きっと軍人であった祖父に似たのだろうと皆、納得していた。
 
 明子は大きく深呼吸をした。
 最後にどうしても父から聞かなければならないことがあった。
 母の真実にたどり着くために。
「最後に、一つだけ聞かせてほしいことがあるの?」
 まだ何を聞きたいのかと父は首をかしげた。
 その一言がなかなか言葉にならなかった。
 しばらくの沈黙を介して明子はその言葉を口にした。
「なぜ、お父様はお母様を殺したの?」
 ひどく父は驚いていた。
 優雅に手にあったカップは音を立て、ソーサラーの上に落ち、破片をまき散らした。
 まるでそれが父の心を砕いた音のようであった。
 父がこんなに動揺するとは思わなった。
 いつもみたいに煙に巻き、うまくはぐらかしてしまうのでないかと予想していた。
「はるの日記に書かれていたのか?」
「いいえ。お母様の日記には最後までそのようなことは書かれていなったわ。
 日々の恙無い生活やちょっとした変化、家族のことだけだったわ」
 実際母の日記には富士でのことや弟の出産のことも、父が語ったようなことは何一つ書かれていなった。
 嫁ぐ前のような激しい気持ちなど一言さえも書かれていない。
 父が語らなければ、当事者以外は誰も知らない出来事だったのだろう。
 そして最後に残されていた真実を明子は知ろうとしていた。
「お母様の日記には何一つ書かれていなかったわ。
 でもね……、最後の日記に挟まっていたの。
 あの日お母様の手に渡らなかった手紙が」
 明子は紅茶の染みがあるテーブルの上に、一枚の手紙を取り出した。
 やけに手紙の白さが目に焼きついた。
「おかしいと思っていたの。
 ある日から突然、お母様の容態が悪くなっていったことが……。
 もちろん、お父様がお母様を直接殺したとは思っていないわ。
 ただ、お父様は間接的にお母様を殺したのではないかと」
 母はあるときから病を患っていた。
 母の病気は現在の医療では感知する見込みはなく、医者からも治すことはできないと早くから言われていた。
 病状の進行は遅いが、ゆるゆると死にいざなわれていた。
 だが明子はあるとき母がひどく泣いている日があったことを思い出した。
 母はただ悲しくなっただけ、病人になると気持ちが弱くなるのねと明子を心配させまいと儚げに笑っていた。
 それから母はまもなくして亡くなった。
 それは突然のことで、弟は死に目にあうことができなかった。
「誰に似たのだろうねその聡明さは。感服したよ。
 よく踏み外すのは足と理性というけれども、私は足を踏み外したようだ。
 明子のいうとおり、私がはるを結果的には殺した」
 父の「殺した」という言葉はやけに響いた。

 はるの病気は最近とみに思わしくなった。
 医者からも今年の春を迎えられないかもしれないことを考えておいてくれと宣告もされた。
 はるとあの男の関係を私は知らないふりで通した。
 彼との約定どおり、彼の息子を自分の子として育て、また約束どおり「誠」という名前も与えた。
 はると過ごした数十年は私に、変化をもたらした。
 どうでもよかった家族もいいと思えるようになり、形ばかりの妻であったはるも妻として女として愛おしいと思えるようになった。
 それはいつの間にか積もっていく雪のように無言に、静かに私に積み重なっていた。
 だがはるの命がもう僅かと言われるようになってから、私は焦燥を感じるようになった。
 彼の人もすでになく、はるが死ということ以外で私のもとを去ることはもはやない。
 私は宮ノ杜勇に完全に勝利したはずだった。
 
 あの日、私は日々募っていく焦燥を、苛立ちをぶつけるようにはるにあの手紙を渡してしまった。
 何も宛名のない封筒を受け取ったはるはきょとんとして私を見つめた。
 「誰かの手紙ですか?あなたからですか?」と首をかしげて尋ねたが、
 私は「なかを見てみるとわかるよ」といつもの悪戯めいた声で答えた。
 「はいはい」とまるで子供に答えるかのようにはるは答えた。
 中身を取りだし、文面を目にした瞬間、はるの表情は凍りついた。
 しばらく、沈黙が支配していた。
 数十年ぶりに本来の役目を果たした手紙から目を上げたはるは怯えるように謝罪を口にした。
 震える声、手紙に落ちる涙の音。
 それを目にし、耳にして初めて私は今日までの苛立ちの正体が分かった気がした。
 「ごめんさない。ごめんなさい」と何度も口にするはるにおそらく今まで一番憎しみを抱いたと思う。
 やはりどんなに時を過ごそうと私は宮ノ杜勇には叶わない。
 法律的にも、道徳的にも、自分たちは関係を築いた。
 また彼が最後まで築くことのできなかった家族をはるとの間に築いたが、所詮、その程度のものだったのだろう。
 はるは一度として私を宮ノ杜勇以上には見てくれなかったのだ。
 彼を思うほどに、私ははるの中にその存在を残すことができなかったのだ。
 私ははるに死んでまでもその存在を残せるのかが知りたかった。
 おそらく、まもなく死ぬであろうはるにもっとも残酷な問いをしたのだろう。
 宮ノ杜勇か、私か、どちらがはるの夫だったのだろうかと。
 彼女の涙と謝罪が一番の答えとなった。
 
 それから間もなくはるは死んだ。
 突然のことだったので誠を呼び戻す時間さえもなかった。
 この突然の死はおそらく私の行動が原因だろう。
 弱っていたはるに止めを刺したようなものであるのだから、
 明子のいうように私が殺したも同然であった。
 
「お父様はなぜ今頃になってあの手紙をお母様に渡したの?
 これを渡さなければお母様の容体が悪化することもなかったかもしれないのに」
「多分、はるの死期が近いからこそ、私は初めて恐れたのかもしれない」
「恐れる?」
「そう、宮ノ杜勇にはるを取られてしまうのではないかとね。
 そんな顔をするな。
 もはや彼が故人であることも分かっていたし、
 これまで一度たりとも彼に負けると思ったこともなかったよ。
 でもね、はるが死んだら、きっとはるは彼の元に行くのだろうと思うとどうしても我慢ならなかった。
 生前、いくら彼らが深くつながっていようとも、はるを渡さない自信もあったのだがね」
 明子は父の顔を見ておもわず涙が零れた。
 父も母も勇という人も誰も不幸になる人たちではなかった。
 少しの釦のかけ違いのように狂った人生。
 その終幕はとても悲しいものだった。
 
「お父様はお母様を本当に愛していらっしゃったのですね。嘘、偽りなく……」
「嘘……偽りなくか……。
 自分が信じられないものに嘘や偽りを判断することはできない。
 しかしお前が信じてくれるのなら、私の言葉も本当になるような気がするし、少しは救われるよ。
 でも気づくのが遅すぎた……」
 空に呟く父の言葉は、母を愛したこそ得た言葉であった。

「お父様。お母様の日記にこれがありました。
 話を聞いている間はこれを渡さないつもりでした。 
 こんなひどい男に真実なんて必要ないと。
 でもお父様が傷ついていることも、お母様をどういう形であれ愛していたこも分かった今、これをお渡しします」
 明子は一枚の封筒を父に差し出した。
 勇がはるにあてた手紙と同じ大きさの手紙。
 テーブルには二枚の手紙が並んでいた。
「中にはお母様の真実が書かれています。
 読むか、読まないかはお父様にお任せします」
 明子はそのまま席を立った。
 父にはひとりになる時間が必要であろうから。


 しばらく、私は手紙を見つめていた。
 明子が気を利かせて席をはずしてくれたのは分かっていたが、
 中を開けて読む勇気が湧かなかった。
 宛名のないがため、だれにあてたものか分からない。
 もしこれが宮ノ杜勇にあてたものであったのなら、私は立ち直れないような気がした。
 これ以上見せつけられたら私も死んでしまうかもしれないなと思った。
 何度か手紙を手にとっては戻すという行為を繰り返したのち、
 私は中をみる決心をした。
 それがはるを殺した私のけじめであると信じて便箋をとりだした。

 この手紙を誰が読んでいるか分かりませんが、きっとこれが読まれているとき私はもういないのでしょう。
 なぜこのようなものを残しているのか、書いている私が一番分かっていないのだと思います。
 これには私の不義も書かれており、こんなものを残せば、何も知らない家族が傷つくことになるかもしれないのに自分でもおかしなことをしていると自覚もあります。
 だぶんこんなことをしている動機は私の気持ちを誰も知らないままでいることに我慢できなかったからでしょうね。
 都合よく語られたくない。私の真実を何かの形で残したかったのだと思います。
 
 私の人生の転機はおそらく宮ノ杜の御屋敷にお仕えして、そこで勇様に出会ったことでしょう。
 壱年という短い間でしたが、一生の中で一番思い出も深く、この身に残る傷と同じで私のなかで一生残る日々でした。
 勇様をお慕いし、勇様のため、夫に嫁ぎました。
 夫と私の関係は始めから破たんしていました。
 それを私は申し訳ないと思う反面、私もある意味、夫のことなどどうでもよかったのです。
 私は不実な思いを抱えたまま夫に仕えてきました。
 しかし夫は優しい人でした。
 私と勇様の関係を知っていながら、妻として扱ってくれました。
 身分の低い、無教養な女など相手にせず、適当な時期をみて妾を作ってもよかっただと思います。
 彼の優しさに気付いたのは勇様の子を身ごもったときでした。
 私は離婚を覚悟していました。
 そこには恐れもありましたが、心の奥底では勇様の元に行けるのではないかという淡い期待もありました。
 ですが、夫は何も言いませんでした。
 自分の子ではないことも、不義を働いたことも何一つ私を責めませんでした。
 そればかりか、明子も自分の子ではない誠も同じように扱ってくれました。
 この手紙を書く少し前、夫から勇様の手紙を頂きました。
 どのような意図があって、夫はこの手紙をくれたのかはわかりません。
 ただ私はあの時、大変驚きました。
 おそらく本来、届けられる時にあの手紙を貰っていたら迷わず、私は勇様のところに走ったでしょう。
 しかしあの手紙を頂いたときに私は初めて夫との関係が崩れることを恐れました。
 長い年月を経て、私は夫も一人の男性として愛していました。
 それは勇様とは違う形のものです。
 激しく、狂おしいといったものではありません。
 ですが、かけがえのない、大切なもので、決して失いたくないものでした。
 自分でも書いていた可笑しいと思います。
 二つの愛など並び立つものではない。
 愛とは真実、一つなものだと思います。
 しかし私の中では、どちらとも真であり、勇様もそして夫もどちらもお慕いする方でありました。
 これが私の真実です。
 私は恐らくもう長くはないでしょう。
 あの時、私は夫に謝罪しか述べられませんでした。
 本当は、そんなことよりもあなたが大切です、勇様とは違う形であなたのことを思っていましたと伝えるべきでした。
 それが唯一の心残りです。
 願わくばこの手紙が夫の目に触れてほしいと思います。
 こんな形で懺悔するとは勝手かもしれません。
 しかし私の一生は大変充実した、得難いものでありました。
 それを与えてくれた夫にも勇様にも感謝しています。
 

 手紙を読み終わったあと、しばらく私は茫然と椅子に座っていた。
 はじめて、頭が働かないという感触を味わっていた。
 私もはるに伝えることはもっとあったのだが、お互い不器用であった。
 もう戻れない日々を懐かしく思い、涙が手紙に零れた。
 


〈 完 〉

あとがき

 やっと「 完 」の文字を打つことができました。
 全六話ですが、内容としてはけっこう書いたと思います。
 応援してくださった皆様、温かいコメント書いてくださった皆様に心からお礼申し上げます。

 少し裏話を申し上げますと、プロットの段階では完全な悲劇話の予定でした。
 誰も救われない、真実は誰も知らないという風にしようかと思っていましたが、
 コメントとかを見ていて、救済してみようかなと気持ちが動いた経緯があります。
 はるちゃんの子供も本当は名前を付ける予定ではなかったのですが、話の都合上名前がないと不便であったので、急遽名づけられました。
 はるちゃんの夫さんはなんとか最後まで、名無しでしたが、ある意味不透明な感じがでたのではないでしょうか。
 
 最後まで書くことができましたのは辺境サイトに来ていただいた皆さんのおかげです。
 この話はここで終わりですが、次に向けて取り組みたいと思います。