02 誰も知らない物語 X 誠実と不実

 
「お母様と勇という人物は、その後どうなったの?」
 母の遺品整理から始まった真実への探求は父の口から滔々と語られていた。
 うららかな午後の日差し、まっ白いクロスをひかれたテーブルには御茶のセットが並べられている。
 はたから見れば、親子の微笑ましい午後のひと時であろうが、語られる内容はまるで警察の尋問のような緊迫さが漂っていた。
「はるはあの別荘に三月も居たんだよ。それは甘い一時を堪能したのではないかな?
 彼らにとってはこの邂逅は一日千秋を経て、やっと思いを遂げられたのだろうし。
 宮ノ杜中将もはるを思って、長い間結婚していなかったようであったから、なにがあったかは想像に難くないと思うが?」
 妻が不貞を働いていたというのに、父は至極、冷静で、他人事を話しているようであった。
 それ以前に明子にはひどく父が面白がっているように見えた。
 母の不幸、勇という人物の不幸、そして父の不幸。
 だれもが不幸になっているのに父は心底うれしいのではないか?
 そして今、真実を知ることになっている明子さえも不幸に引き込もうとしているのではないか?
 だがすべてが父の手の内に進んだのだろうか?
 明子は疑問で仕方なった。
「お父様にはどのような意図があって、このような悲劇じみたことを仕組んだの?」
 明子の問いにまるで心外だと言いたげに父は顔を歪ませた。
「意図とは失礼だね。
 私は妻を寝取られた身だよ。寝耳に水とはこのことさ」
「嘘ね、お父様。
 お父様は意図があってお母様を富士の別荘にやったのよ。
 それも一人で。
 あの場所に勇という人物がいることも、お母様が勇にあった場合に起こす行動もすべてご存じだったのよ」
 娘の答えに思わず驚いてしまった。
 『何が目的だったのか?』という娘の問い。
 かつてこの問いをした人物が一人いた。
 自分の娘があの男と同じ問いをする。何と皮肉であろうか。
 記憶をたどるように、かつてを思い出す。
 人が行きかう東京駅。煩いくらいの汽笛と人の喧騒、そして彼の人と冷鋭なるやりとりを。


 はるが別荘から帰ってからまもなくのことだった。
 はるが二人目の子供を身ごもっていることが判明した。
 夫の実家は次にこそ男の子をと望み、かつては冷淡な態度を取っていた姑が優しくなった。
 満ち足りた日々のはずだった。
 しかしはるは恐ろしくてならなかった。
 なぜなら腹の子は夫の子でなかった。これが夫の子であれば、心はまだ軽かった。
 あの忌わしくも夢のような日々に得た子。
 はるは日々怯えながら、大きくなっていく腹と夫と子供の世話に明け暮れた。
 夫は懐妊を非常に喜んでくれた。
 聡い方である故、自分の子供ではないことなど分かっているだろうに、なに一つ言わない。
 不貞を働いたと責めてくれたほうがまだましであった。
 毎日、はるの体を労わる夫。
 妹か弟ができるとはしゃぐ無邪気な娘。
 このような日がいつ壊れるのか。
 はるはその日を怯えながら待っていた。

 

 秋深まる日。勇は東京駅にいた。
 辞令が下り、本格的に大阪で新師団の編成をするように命令が出たのだ。
 最近、世界情勢は不安になりつつあり、近く政府と軍は戦力の増強のために、新師団の編成を行うことが決定された。
 勇はこれまでの二個師団の連隊長の実績を買われ、中将に昇進した。
 昇進後、初の任務は大阪にて新師団の編成を行うことになった。そして編成後はそのまま師団長になることが内定している。
 やっとという思いで勇はいっぱいであった。
 強き國にするという誓い。
 そのために多くのことを犠牲にした。
 勇の青春、宮ノ杜の財、母であるトキには孫を見せるということもできなかった。
 そして一番大事だった人。
 はると別れてのち、勇には数多くの縁談が舞い込んできた。
 宮ノ杜の当主となったため、財界のみならず、政界、軍関係者も次々と見合い写真や社交界で令嬢たちと引き合わされた。
 だが勇はどのような令嬢と会おうと誰一人として心動かされる人はいないかった。
 勇のそんな態度に、正さえもが「忘れるべきだ」と忠告してきたことがあった。
 宮ノ杜のためではない。勇自身のための忘れるべきだと珍しく諭された。
 そのために皇室にゆかりのある令嬢を勇と引き合わせたこともあった。
 さすがにやんごとなき方なら、勇も折れるのではないかと思ったのだろう。
 ご丁寧に本条院をも巻き込み、お膳立てをしていた。
 それさえも勇は断った。
 自分でも馬鹿馬鹿しいと感じる。
 自ら捨てておきながら、その影を追うなど正気ではない。
 社交界に行く時、どこかではると出会えるのではないかと期待する自分がいる。
 このまま戦場で息絶えるまで、その影を追うつもりだった。
 それが勇の贖罪で、自己満足であった。

 しかし運命とは皮肉で、勇とはるは再び邂逅した。
 

 勇は東京を離れるにあたり、一通の手紙を密かに出した。
 宛てた人物は、はるであり、自分といっしょに大阪にきてほしいという旨の内容だった。
 そして今日、来てくれるのなら東京駅で待つと締めくくられていた。
 あのときとは逆の立場となったのだなと勇は思った。
 はるの縁談の日、はるは勇が来ることを願っていたのだろう。
 しかし勇は行かなかった。なにが起こっているのか知っていながら、勇は未来を選んだのだ。

 勇は腕時計を見た。
 出発までの時間が差し迫っていた。


「こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ」
 突如として、かけられた和歌に勇は驚き、鋭い視線でその男を見た。
 百人一首にも納められている有名な歌。
 待っても訪れない恋人を待っている辛さ、そして待つ身を焼く藻塩が火に焦がれるようだと例える切ない恋歌だ。
「はじめましてかな?宮ノ杜勇殿」
「貴様は……」
「やっぱりはじめましてがぴったりかな。
 お互いに面識はあるが、実際は意識していなかったのだから、はじめてであることには変わりないかな?
 今日、はるはここには来ないよ。それを君に言いに来た」
「はるが来ないと言ったのか?」
「いいや。はるは君がこの場所で待っていることすら知らない。
 君が書いた手紙は、不幸にもここにあるのだし」
 そういうと、一枚の手紙を勇に見せた。
 宮ノ杜の力を使って、はるに秘密裏に届けさせたものだった。
「君がどんな手を使おうが、私の家で勝手はさせない。
 おいおいそんなに怒らないでくれ。
 君が高位の軍人であろうが、往来で政府高官を切りつけたとあっては君であっても、さすがに拙いだろう?
 君だってやっと掴んだ昇進をこんなところで棒には振りたくはないだろう。それに君とは一度ゆっくりと話してみたかった」
 勇は手を掛けた腰の軍刀からゆっくりと手を離した。
 目の前の男を切り殺してやりたかったが、相手のいうとおり、往来の激しい駅ではそれも叶わなかった。
「中将、お時間ですが……」
 部下が列車の出発を告げる。
「中将閣下に用が出来てね、次の列車で大阪に向かうのだよ」
 部下の言葉を遮って、勝手な変更を告げる。
 その言葉に気分を悪くした部下が声を荒げようとした。
 しかし言葉を遮るように一枚の辞令書を部下に渡した。
「辞令もある。はい、これ。
 次の列車の切符だよ。まだ時間があることだ、中将、少し話さないかい?」
 そういうと、勝手に歩き出した。
 ついてこなくてもいいけどと前置きをして。
 勇は男のペースに乗せられていることに気付きながら、それでも男の提案に乗らなければならないことを歯がゆく思った。

 駅の中にある乗客が待ち時間を潰すための喫茶店、そこに勇と男は入った。
 大将閣下の次男。はるの夫。外務省次官。
 これが目の前の男の身分だった。
 名前も聞いた気がしたが、勇は覚えていなかった。
 ただそれらの肩書と顔だけはなぜかしっかりと覚えているが、なぜか印象に残らない。
 ひどく奇妙な感じの男だった。
「まあ、掛けてくれたまえ。お互い言いたいことが山ほどありそうだから……」
 そういうと男はウエイターに注文を済ませた。
「はるはどうした?」
「さっきも言ったとおり家にいるよ。今の時間なら娘と一緒じゃないないのかな?」
「貴様は手紙を読んで、俺にはるを渡さないと言いに来たのか?」
 鋭い視線を投げかけたが、男は素知らぬ顔でウエイターからコーヒーを受けとっていた。
「半分はその通り。でも半分は違うかな。
 実際、私は君とはるがまあ有体に駆け落ちしても大して気にとめないだろう。
 世間体や親がうるさいという点では気が重いけど、たぶんその程度のことかな」
「貴様ははるのことをその程度に考えているのか!」
 怒りを通り越して憎しみしかわかなかった。
 どんなに欲しても得られない女性を目の前の男はどうでもいいと言っているようだった。
「おいおい。そんなに興奮することか?
 大体、私たちくらいの身分のものが、階下の女に入れあげるほうがおかしいだろう。
 第一、君だって出会った当初は、はるの存在なんて気にも留めていなったはずだ。
 君たちは幸運にも恋に落ちたから、お互いを認識したけれど、ただの使用人なら家にある家具と一緒さ。
 それに引き換え私は出会った当初からはるを大事にしてきた。
 それは階下の女には不相応なくらいにね」
 話し方は紳士的だった。
 官僚特有の気取った感じで、言葉づかいも丁寧だ。
 それがひどく勇の気に障っていた。
「本音を言えば、はじめは、はるには大して興味なんてなかった。
 政略結婚であったのだから、それが普通であるのだろうが、彼女自身女の魅力があるわけでも、とりわけ何かに才能があったわけでもなかった。
 どちらかといえば退屈な女だったよ」
 最後の言葉に勇は反応し、テーブルを叩いた。
 回りの客の視線が一瞬だけ集まったが、すぐに興味を失せたのか元に戻った。
「では貴様はなんのために今日来た?」
「まあ最後まで私の話を聞け。
 退屈な女であったが、非常に興味深い点もあった。
 それは、君といっていいのかな?宮ノ杜との関係だ。
 彼女は宮ノ杜の血統でもないし、一時的に雇用させていただけの存在だ。
 しかし彼女は深く宮ノ杜と関わっていたようだったから少し調べさせてもらったら、君とはるは恋仲であったようだね。
 でも君たちはお互いを思い合って、小説みたく別れた。
 そこで私は君たちを試させてもらった」
「試す?」
「焦がれる恋人たちが劇的な邂逅をしたらどうなるのか?という感じさ。
 はるが一人でなぜあの別荘にいたのか、君は疑問に思わなかったのかい?
 あのあたりに陸軍の駐屯地計画と陸軍学校の話があることも知っていたし、君がその視察に来ていることも知っていた。
 まあ、こういう時しか父は使えない人だからね。
 父からいろいろ聞きだして、小説ばりの再会を演出した。
 出会うか出会わないかは賭けだったのだが、きみたちは見事運命の糸で結ばれていたわけだ」
 賭けを楽しむかの様な語り口。
 勇とはるの身を切るような関係さえも娯楽として楽しんでいる男。
 勇は身に残る自制心を総動員していた。
「私は君に感謝している。
 はるは誠実な女性だ。君も軍人として有能でしかも誠実であると思う。
 君たち二人は誠実な人間であるのに、君たちの関係だけは不実。
 私なんて不実な人間であるのに、はると私の関係は誠実そのものだ。
 なんて皮肉なんだろうね。
 それが私にとっておもしろい。
 私はここに至って、はるにちゃんと興味を持てるようになったし、愛せるようにもなった」
 我慢ならなかった。
 できるものなら、目の前の不快極まりない男を切り殺してやりたかった。
 この男のもとにはるを置いておくなどできなかった。
 どんな誹りを受けてもいい。一刻も早くこの男のもとから彼女を取り戻したかった。
「はるは今、妊娠している」
 うれしそうだった男の表情が急に真剣そのものとなった。
 勇は急に発せられた言葉が呑み込めなった。
 ただ鸚鵡返しのように「妊娠」とつぶやいた。
「もちろん、腹にいるのは君との間の子だ。
 私の子ではない。
 これでも君ははるを連れていける?
 私は知っているのだよ。
 大阪で新師団設立後、君は大陸への出征が内定している。
 君がかねてより望んでいたことだ。
 そうそう遅れてしまったけど、昇進と栄転オメデトウ。
 でもこれで君は、もっとはるを伴うことなどできないかな。
 君はこの度の昇進から宮ノ杜の家督を御兄さんに譲渡したのだし、君が死ねばはるは路頭に迷うことになるかな。
 無理やり私からはるを奪うのだから世間的にもはるの立場は悪くなるのだし、君の死後だれが彼女の面倒を見る?
 宮ノ杜はきっとはるを見捨てるだろうし、君の子もかわいそうなことになると思うよ」
 憎しみと驚きが一気に勇を襲っていた。
 この男の言葉が真実ならば、はるを伴うことは彼女の不幸となる。
 勇にも分かっていることだった。
 はるが勇の願いに応じても、自分たちに未来がないことを。
 ほんの一時しか勇ははるのもとにはいられない。
 正式な辞令はまだであるが、この男のいうとおり勇は大陸への出征が決まっている。
 大陸では昨今、抗日運動が盛んで、学生運動や組織的な抵抗運動が強まっている。
 政府としては大陸での植民地支配において、抵抗運動を押さえたい方向であり、陸軍としても大陸での権益強化は方針として決まっている。
 危険な地にはるを伴うことも、まして子を身ごもった女を連れていくことは得策ではない。
「君たちには取るべき選択肢はそう多くない。
 私の提案を受け入れないではるを私から奪っていくのも情念という観点から見れば悪くはないだろう。
 だが君がはるをあきらめてこのまま大阪に旅立つのであれば、責任を持って君の子を私が養育しよう。
 むろんはるもこのまま私の妻として扱っていく」
「何が目的だ。
 このような莫迦げた提案ができる。
 それに貴様は、はるを愛しておらんのか?
 俺にはるを寝取られて悔しくないのか?」
「さっきも言ったが、はじめは興味すらなかった。
 私はね、そもそも愛とか結婚とかに崇高な感情を抱いたことなんてなかった。
 所詮、結婚とは契約であり、その過程において愛とか恋とかは添え物のように思っていた。
 契約の中の条項にまあ楽しい文言があるくらいという感じさ。
 だが君たちは私の思惑や常識を超えていたよ。
 普通に考えたら、きれいさっぱり忘れて、新しい人生を生きるという選択肢が一番理想的な条件であるはずなのに、
 君たちときたら何年経とうが、人妻になろうが真剣に思い合っていた。
 感服と敬意を表さずにいられないくらいにね。
 だからだろう、そんな崇高な女性だからこそ、私ははるを愛おしく思うようになったのは。
 彼女は崇高だからだこそ、罪の意識も覚えるし、また君への思いも偽れない。
 さっきの答えだけれども、今は誰にも渡したくないくらい愛している。
 君たちの愛が本物であればあるほど、私ははるを愛することができるだろう。
 世間や常識が君たちを不実だと罵ろうが、私は誰よりも君たちが誠実だと祝福しよう」
 誰よりも祝福されたくない人間から祝福を受けるとは思わなかった。
 もう誰にも渡したくはなかった。
 ほんの一時、勇の手に戻ったはるをもう一度このような形で手放すとは思わなかった。
 これがあのときの選択の結果であり、勇の罰のかたちなのであろう。
 どれほど勇がはるを思おうとも、この韜晦した男からの提案を勇は受けざるを得ないこともまた知っていた。
 勇は一度目を閉じ、まるで宣誓のように男に問うた。
「はるを害さないと誓えるか?」
「無論だ。君が国家に誓う忠誠以上に誓えるよ」
「子供のこともか?」
「たとえ君の血を引いていようとも、はるから生まれる以上は私の子だ。
 どちらかわからないが、生まれてくる子に苦労もさせないし、希望も叶える」
 もう何も言うことはなかった。
 目の前の男は韜晦はしているが、おそらく約束を守るであろう。
 どんなに勇がこの男を信用していなくても。
「最後に、生まれてくる子の名前、君に命名権をあげるよ」
「名か……。貴様はいいのか?」
「死にゆく君にせめてもの餞別というところかな?」
 勇は男の言葉に顔を顰めた。
「貴様はよほど俺に死んでほしいようだな。
 男なら……誠。女ならみのりとしてほしい」
 勇が告げた名を男は一言口にすると、了解したと言った。

 勇は腕の時計を見た。
 時は列車の発車時刻になろうとしていた。
 勇は席から立った。
「往来であることを感謝するのだな。今日ほど貴様を殺したと思った日はない」
 勇の殺気の籠った視線を男は面白そうに受けた。
「奇遇だな。私も生まれて初めて殺したい相手が見つかった。
 君も心おきなく国家のために尽くして死んでくれたまえ」




あとがき

 「こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ」
 by 藤原定家
 長らくお持たせしました。連載の続きをやっと更新です。
 目指せ男のつばぜり合いでしたが、ちゃんとなっているでしょうか?
 稀に見ぬ文章量でお送りいたしましたが、どうでしょうか?
 反応がきになるところです。
 勇の心境にぴったりの和歌がないかなと思っていろいろ探しましたが、なかなか見つからず、難儀しました。
 高校時代の国語便覧を何気なく見ていましたら、百人一首にいいのがあるじゃないかと見つけ、チョイスしました。
 なかったら本気で自作の和歌を考えるところでした。
 次で、この連載は最後になります。
 最後まで何とぞお付き合いください。