02 誰も知らない物語 W 邂逅
結婚して一年ほどたったころ、はるは夫の都合で日本を離れることになった。
夫は外交官で、はるにはよくわからなかったが、かなり有能で、将来を嘱望されていた。
この度の外国行きも、現地の大使の是非にというお声がかりもあった。
夫は外国に行くについて、はるを同行すると言った。
夫の実家は、はるを海外に連れていくことに難色を示していた。
いくら外国が、自由恋愛に理解があるとはいえ、やはり未だに身分違いの結婚など奇異でしかない。
義母は、恥になるから、はるを置いていくように、夫に殊更言い募っていたが、頑としてはるを連れていくことは譲らなった。
はる自身も無教養な身で、言葉が通じない場所に行くことは不安で仕方がなかった。
しかし夫の言葉は心配ないの一言だった。
「君の心配も理解できる。私も海外に留学し始めは、不安で仕方がなった。
でも君には私がいるし、無教養だ、身分が、といろいろ気にしているが、そんなこと何一つ心配する必要などないのだよ。
言葉も作法も私が可能なかぎり教える。
身分も他のものに笑わせない。だから……」
夫は真摯な目ではるを見据え、まるで貴婦人に乞うように膝をついた。
そしてはるの手をそっと取った。
「だから私とともに来てほしい」
はるは、その瞬間心臓を止めてしまいそうだった。
かつて、まったく同じように膝をつき、はると一生をともにすると誓った人がいた。
そして今、一生の選択を問う人がいる。
因果というべきなのだろうか。
過去のときは、涙を流して、嘘をつくことしかできなかった。
あれからはるは、何も変わっていない。
今度も結局は頷くことしかできないのだから。
はるの了承を夫は「ありがとう」という言葉で答えてくれた。
君を守ってみせる、心配はいらないと言葉を尽くしてくれたが、はるの心には響くことはなかった。
はるは、ほどなくして夫の赴任先について行った。
確かに海外の生活ははるの想像以上の苦労を強いた。
言葉、習慣、身分。
いろいろなことが苦難としてはるに降りかかった。
だが約束どおり、夫は、はるに言葉、作法、習慣を教え、決してはるを一人にはしなかった。
また海外での生活ではるの回りも変化した。
何かとはるを苛めていた夫の家族がいないことは、はるに心のゆとりを与えた。
そして海外に渡ってすぐ、はるは懐妊した。
海外で生まれた子供は女の子であった。
夫も素直に喜んでくれた。
女であろうが、明朗快活であってほしい、外国のように自由であってほしいと夫は願い、子供に明子と名づけた。
「帰国するのですか?」
海外に渡って三年目を迎えるころ、領事館から帰宅した夫がはるに帰国のする旨を伝えた。
「ああ、任期だからね。
一度、帰国することになった。
はるも久しぶりの帰国だから、ご両親にお手紙を書いてお知らせするといいよ。
明子も初めてのおじいちゃま、おばあちゃまに会うんだよ」
そう子供に告げて、抱きあげた。
まだ三つにならない明子は、よくはわかっていない様子で、「どこかに旅行にいくの」と夫に無邪気に聞いていた。
「久しぶりに帰国するのだから、会いたい人に会うといい」
会いたい人。
はるは一瞬、その言葉に反応したが、結局は両親と親友のたえに手紙を書いただけだった。
三年ぶりの日本は、かなり変わっていた。
元号が大正から昭和に変わり、町並みもすっかり変化していた。
またはるの周囲も変化した。
あれだけ元使用人だ、庶民だと蔑んだ夫の家族ははるが外国で一流の貴婦人のように変わったことに驚き、
そして社交界ではるを馬鹿にしていた貴婦人はこぞってはるに媚びを売るようになった。
偏に「外国帰り」という言葉は、はるの環境を変化させていった。
夏を迎えるころ、突然の夫の一言がはじまりだった。
「はる。別荘に行かないか?」
「別荘ですか?」
「私の知り合いが富士の麓に別荘を持っているのだが、そこに三か月ほど行かないかい?」
「お仕事ですか?お供しますよ。明子も連れていきますか?」
はるは、夫の上着を掛けながら、詳しい日程を聞こうとした。
「私も、明子も行かないよ」
「私、一人で行くのですか?なぜ……」
はるは、夫の一言に困惑した。
あまり夫は社交界などにはる一人で行かせることはしなかった。
はるが、元使用人ということで、いやがらせをするものが少なからずいたからだ。
過保護とも言えた夫が、一人で行けということが腑に落ちなかった。
「実は、三か月ほど遠くに出張が決まってね。
父と母の態度が最近、殊勝であるとはいえ、君に何かするとも限らない。
私が居ない間に、君に何か嫌がらせをするかもしれないからね」
「明子は……」
「明子は是非、屋敷に寄こすようにと、父からの厳命でね。
あの人も老いたということだよ。
孫が可愛くて仕方ないようだね。
特に女の子だから、構いたくてしょうがないようだ」
肩をすくめ、どうしようもないねと言ったが、実際のところ明子には会いたいが、はるは来なくてもよいということなのだろう。
何も言わない、配慮の届いた夫なりの気遣いをくみ取り、はるは別荘行きを了解した。
はるが訪れた別荘は、閑静な場所にあった。
かつて一度、別荘と呼ばれるところに行こうとしたが、結局、あの時は車から飛び降り、行くことはなかった。
帰国の疲れを癒すようにと言われ、このところ舞踏会だ、園遊会だと、でごとの多かったはるは、この静かな場所が日に日に気に入っていった。
夫に恥を掻かせないようにと気張り続けていたと、ここに来て改めて感じた。
近年、この別荘地は外国人観光客の避暑地として人気があり、それもあってか、建物や通りは、西欧風に統一されていたが、一歩、道を外れると、昔ながらの民家が立ち並ぶ。
一人であることは寂しかったが、それでも都会の喧騒から離れることは、はるに何よりの安らぎを与えた。
ある昼下がり、はるは、近所の人の勧めで、富士五湖の一つ、山中湖に散策に出かけた。
真夏でないとはいえ、日差しは強かったが、湖面をふく風は心地よかった。
はるは、湖面を眺め、何がいるのかと目を凝らした。
真剣に見ていたために、突如としてふいた風に日傘が煽られてしまった。
手を離してしまったために日傘は、彼方に吹き飛んでしまい、はるはその傘を追った。
傘は幸いなことに湖に落ちることなく、人に当たって止まった。
「すいません……」
傘を拾ってくれた人にお礼の言葉をかけた。
日傘が陰になり、拾った人物は見えなかった。
しかし、拾った人物の顔が見えた瞬間、はるは言葉を失った。
そう、その人物は幾度と夢に見、そして永遠に会うこともないと思った人だった。
「……勇様」
名を呼んだ時、はるは何かが音を立てて、崩れていくような気がした。
あとから思えば、あのとき是が非でも彼の人から逃げ出さなければならかった。
勇は拾った日傘をはるに差し出した。
差し出された日傘をはるは、おずおずと受け取った。
「息災そうであるな、はる。五年ぶりか?」
手渡された日傘と共に、はるは勇と湖畔を歩いていた。
そのまま、礼を言って立ち去ることもできたが、勇から暇なら少し歩かないかと請われ、今こうしてはるは歩いていた。
「はい。なんとか恙無く。勇様は、ご昇進を重ねられていると、お義父様からお聞き及んでいます。御栄達おめでとうございます」
「お前を捨てて重ねた昇進だがな」
勇は自嘲的に呟いた。
「お前こそ次官夫人として社交界でかなり名が知れ渡っているようだが。
『外国帰りの貴婦人』という大層な通り名まであるようだな」
はるは、勇の言葉に思わず俯いた。
勇と社交界で顔を合わせたことはこれまでなかったため、社交界での自分ことを言われるとは思わなかった。
勇の洋風嫌いは未だ健在で、ほとんどの行事は、正がこなしている。
むろんどうしても勇が出なければならないときは、勇も参加しているようであるが、そのような格式高い場所には、元使用人であるはるは、憚って参加したことはなかった。
「以前、このように二人で歩いたな。
あれからお互いに変わったな」
何をとは言わなかった。
だがはるには痛いほど、勇の言いたいことが分かった。
「すべては、過去のことです。
勇様にお仕えしたことも、このように歩いたことも、そして……」
その後の言葉をはるは呑み込んだ。
『そう、お慕いしたことも』という言葉を。
「勇様は、お仕事でこちらに?」
はるは、感傷を断ち切るべく、話題を変えた。
「変わらんな。そういうところは……。
使用人である時も質問を禁じられていながら、ことあるごとにお前は俺に質問したな」
「もう、使用人でないのだから、構わないでしょう」
「任務のため、答えることはできない」
勇はここにきた経緯を語ることはできないといった。
「貴様こそ、なぜこのような場所に?」
「私は夫の勧めで、保養に」
「保養」という言葉に勇は異常なまでの反応をした。
「どこか調子でも悪いのか」と勇ははるの肩を手を置き、顔を覗き込んだ。
「ただの観光と保養だけです」
とはるは、勇の手を振り払うように先を歩きだした。
勇が触れた瞬間、はるの心臓は張り裂けそうであった。
社交界で培った「冷静な態度」など役に立たない。
ただ、触れただけ。
触れただけなのに、感覚が五年前に巻き戻る。
このまま、ここに居てはいけない。
はるには、夫も子供もいる。帰らねばならない場所があるのだ。
それは目の前の勇にも言えること。
はるは、罪をこれ以上重ねないためにも、別れの言葉を切り出した。
そのときだった突然、はるの手を勇が引いた。
突如の出来事にはるは何もできなかった。
気づいたときには、はるは、勇の腕の中にいた。
「お放し下さい!勇様」
はるは、必死に勇から逃げ出そうをしたが、男の力の前になすすべもなかった。
「はる。
お前が居なくなって、初めて俺はお前以外を愛することができないと知った。
あの時、俺がお前を迎えに行っていたら、お前はこうして俺の腕の中にいたのか?
他の男の子を産むこともなかったのか?」
悲痛な叫びであった。
それははるが、幾度となく考えたことでもあった。
自分と同じように考えていたことを知ったはるは、茫然となっていた。
勇は涙を浮かべるはるの顎に手をあて、自分の方を見させた。
抵抗などできなかった。
近づいてくる勇に抗うこともできず、はるは勇の口づけを受け入れた。
そのあとのことをはるはろくに覚えていない。
口づけのあと正気に返ったのか、はるは勇を突き飛ばし、逃げ出した。
幸いなことに勇ははるを追ってこなかった。
それからはるは、一歩も外を出歩かなかった。
勇と再び会って、気持ちを平静に保つことなどできそうになかった。
別荘の管理人は、はるのことを心配していたが、気分が悪いなど言ってなんとか誤魔化した。
このまま静かに過ごせば何事なく終わる。
あの出来事は悪い夢だと思うことにした。
「奥様、今夜は台風の影響で嵐だそうですよ」
ラジオからのニュースを聞いて、管理人の老婆は雨戸を閉めていた。
管理人夫妻は、別荘のほど近いところに屋敷を持ち、三食の用意や掃除のときにだけ訪れていた。
このところ沈みがちなはるを心配して、なにくれとなく気遣ってくれた。
夫妻はきっと夫や子供に長い間会えないため、気分が沈んでいるのだと勘違いしてくれたことが幸いだった。
「戸締りはしっかりしておきますので、奥様もお気をつけてください。
嵐も夜中過ぎには通り過ぎるそうなので」
老婆は夕食の配膳を済ますと、はるは早めの帰宅を勧めた。
なるべく嵐がひどくないときに家に帰りつくように配慮してのことだった。
老婆が帰宅してから、ますます嵐はひどくなった。
雨戸は閉まっており、どうにかなるわけでもないのに、ひとりぼっちで心細かった。
コツコツ。
小さな音だった。
始めは雨が戸を叩く音だと思った。
コツコツ、コツコツ。
小さな音は続き、はるは誰かが戸を叩いていることに気づいた。
おそるおそる玄関に行き、戸を少し開けた。
そこにいたのは、二度と会うことのない人だった。
「勇様……、どうして……」
どうしてここを知っているのか、なぜこの場にいるのか。
すべての言葉が出てこなかった。
つい先ほどまで心の中を占領していた人がいる。
はるは咄嗟に、玄関の戸を閉めようとした。
しかしそれより先に勇が、戸に手を掛けたことでそれを阻まれた。
「お前に会いにきた」
はるの力では、勇を追い出すこともできない。
勇の眼は、はると話すまで帰らないと言っており、はるは観念した。
「どうぞ、こちらへ。
お召ものが濡れています。
このままでは風邪をひいてしまいます。
今、なにか拭くものをお持ちいたしますのでお待ちください」
はるは、リンネ室にあるタオルを取りに行こうとしたが、勇がはるの手を捕えた。
「もう逃げたりいたしません。
しばし、お待ちを」
はるは、勇の目をみて答えた。
もう逃げないと、決着を付けるという意味を込めて。
はるの決意を感じた勇はすんなりと手を離した。
はるは、タオルを持ってきて、勇に渡すと応接間に通した。
しばらく沈黙が続いた。
はるは努めて勇を見ないようにした。
勇に背を向け、窓の外の嵐を見ていた。
まるで今の心境のようだ。
嵐がすぐそこで逆巻いている。
はるの平静はまるで部屋の中のように静かだ。
だがそれも隔たりがあるが故のものだ。
窓を開ければ、嵐はやってくる。
何を話すべきなのか。
はるは意を決して話しかけた。
「勇様、今日はどのような用向きで起こしになられたのですか?
外は嵐です。
まさか雨宿りに立ち寄った家が、たまたま私のところだったというわけではないのでしょう」
「お前は変わったな。
嫌味をいうようになったのか?」
勇ははるの物言いに顔を顰めた。
「今は使用人ではありませんから……。
このような物言いも許されるでしょう。
それにあれからどのくらい年月がたったとお思いですか?
私も変わります。勇様も変わったのでしょう?」
「以前はそのような言い方……貴族の女のような取り澄ました言い方などしなかった。
お前を変えたのは何だ?
時間か?立場か?それともあの男か?」
「それは喜ぶべきことではないのですか?
私は今、誰にも後ろ指さされないところまで来ました。
『元使用人』が『外国帰りの貴婦人』ですよ。
私も偉くなったものです。
おそらく今なら勇様の隣に立っていたとしても遜色ないことでしょう。
あのとき得られなかったものを私はすべて持っています」
今の自分を見て思うことがあった。
なぜ、あのとき今ほどのものを持ち得なかったのかと。
教養を、身分を、所作を。
あのとき、勇が自分と添い遂げると誓ってくれたとき、そのどれか一つでもあったらと。
勇は自分に背を向けるはるのところに歩み寄ると、腕を掴み自分の方を向かせた。
「俺を見ろ。
俺ももう目を背けない。
お前を変えたのは、俺だったのだな」
「勇様以外に私を変える人はいません」
「後悔とはすべからく遅くに気づくものだな」
勇ははるを抱きしめた。
今度ははるも拒めなかった。
これまでのことはすべて勇のためだった。
意に沿わぬ結婚をしたことも、嫁ぎ先での苦労も、外国で研鑽を積み、淑女になろうとしたことも、もしかしたら夫との間に子をなしたこともそうだったのかもしれない。
「もう俺のために苦労を重ねるな。
もう一度いう。はる、俺を見ろ」
懐かしい言葉だった。傲慢で、時にはその激しい言葉に泣いたこともあった。
はるは、勇の胸に埋めていた顔を上げた。
「もう疲れました。
忘れたふりも、愛しているふりをすることも、そして愛していないふりをすることさえも」
もはやなにな抗えばいいのか分からなくなっていた。
ただ今、はるは昔日の寂しさを癒したかった。
そして目の前にいる愛しい人の手を伸ばした。
あとがき
難産でした。
長いものになったのは驚きで、時間もかなり一話で進んでいます。
男と女の真剣勝負をもうちょっと感じてほしいのですが、自分の実力ではこれで限界です。
オリキャラの女の子の名前を付けました。
便宜上ないと、話がかみ合わないなと思って、急遽決定です。
次は、男と男の戦いの予定??
どっきっとするようなものにしたいです(願望ですが)