そう呼び止められ、私は心底、びっくりした。
私の驚きように、父は苦笑しながら、「そんな化け物をみたような驚き方はしないでくれ」と言った。
私は日記をもとの場所に戻すと、日当たりのよいテラスに向かった。
すでにティーカップなどは整えられ、お茶の準備は出来ていた。
私は居心地悪い思いをしながら、席についた。
父の顔をなぜか見ることができない。
きっと母の日記によって気持ちが引きずられているのだろう。
「熱心に読んでいたね?あれは面白かったかい?
でもそんな顔を見ると、私のことはよく書かれていなかったようだ」
父の自傷めいた声に思わず、顔を上げると、やっぱり君は母さんに似ているねとほほ笑んだ。
「責めているわけではないよ。私もあの日記帳のことなんてすっかり忘れていたのだから。
お前が見たことを殊更、咎めるつもりもないよ」
それにもうあれを見ても、責める人もいないしねと悲しげに顔を歪ませた。
父が日記の内容をおおよそながら検討を付けているようだった。
娘の私から見ても、父は異質な人だった。
母もよくわからない人と感想を漏らしていてが、その言葉がぴったりと当てはまった。
優しい人だと思う。
家族思いであるし、名家特有の気取ったところもない。
でも父親ながら、違和感をいつも与える人だった。
嫌いなわけでもないのに、いつも私はその違和感を持てあましていた。
「お父様はお母様のことを知っていたのですか?」
あえて何をの部分は言わなかった。
しかしそれだけで十分伝わっていたのだろう、カップの湖面をじっと見つめながら「ああ」と言った。
この場に弟がいなくてよかったとしみじみと思った。
こんな話を弟には聞かせられない。
3歳年下の弟は、清廉なところがあり、結婚前とはいえ、母の行動を不貞だといっただろう。
弟は、祖父に憧れて、軍人になる道を選んだ。
一本気なところがあぶなっかしかったが、素直で、自慢の弟であった。
「お父様はお母様のことをどのように思っていたのですか?」
「どのようにとは藪から棒に……。もちろん愛しているよ。生前も、もちろん今も」
父は私の質問に対して、率直に答えたようだった。
だが私はこの答えが嘘に聞こえた。
父の時代、政略結婚など当たり前のものだった。
親の決めた相手、家の都合のよい相手と結婚することなど別段、おかしなことではない。
しかし心は別のものではないのか?
日記から感じた狂おしいまでの母の勇という人物のへの思い。
それをなかったことにして、別の人と添い遂げることなどできるのだろうか?
「お父様の愛ってなんですか?
お母様の心に忘れぬ人がいるという事実を前にして、私ならきっとお母様を愛す自信がありません」
その答えに父はおかしそうに笑った。
「やっぱりお前は、はるにそっくりだよ。
純粋なところも、優しいところも、そして愚かなところも」
父の言葉に私は言葉を失った。
愚か。
たった一言であるのに、言葉を発した瞬間、一瞬にして目の前の人物が父ではなくなった。
顔は柔和な、まるで生徒に教える先生のような表情を浮かべているのに、父の纏う空気はその逆をいくものだった。
「愚かとは、ごめんね。言葉を選ぶべきだったかな?
でもお前が踏み込んだのだから、責任は持つべきだ。
このままこの話を終わりにするなら、そうだね……謝るよ。
でもそうだね、私の口から話を聞きたいというのなら、お前の好奇心に敬意を表して、私たちの真相を教えてあげよう」
父の挑発めいた声に、私は怒りを覚えた。
きっと私はこのとき、むきになっていたのだろう。
私を、そして母を侮蔑するこの男を。
はると出会ったのは、三月の末日、桜がちょうど満開になる少し前の時期だった。
私は帝國陸軍の大将を父に、没落したが、華族の出自を持つ母から次男坊として生まれた。
すでに2つ上の長男が存在し、その兄は父の期待に添う人であったから、私は自由な青年時代を謳歌していた。
私は家では何の期待も持たれない、その代わり来たる日まで、家の利益に貢献する日がくるまで何をしていても文句も言われない立場。
故に、家の意向に沿わない文官になろうが、外遊に行こうが困った奴だで済まされた。
しかし30も手前、突如、父から縁談を命じられた。
「……私に縁談ですか?」
「そうだ。それも相手のたっての希望だ」
「もの好きな人もいるのですね」
まるで他人事のような反応に父は、目を顰めた。
きっと此度のことは私を痛めつけるに十分な案件だと思ったのだろうが、予想に反して淡白な反応に気分を害されていた。
父は、私のことをひどく嫌っていた。
他の兄弟のように痛めつけることが、一度してできない。
ひどく要領のいい子供。
それは父の気性からすると相容れないものだった。
そんな父の反応をおもしろいと思いながら、すっと父に向かって手を出した。
「なんだ?それは」
「父上こそ、ご冗談を。縁談ですよ?
相手の見合い写真をください」
父は一言、「ない」と言い切った。
その言葉にだけ、私は思わず反応した。
「お前でも、見合い写真がないくらいで驚くのか?」
「ええ。私は父上のように戦場で平常心など養っていませんから、縁談で、しかも相手が不明では動揺もしましょう。
まさか、私の相手は、庶民ではないのですから、さっさと写真をください」
「そのまさかだ。
お前の相手は、庶民の娘だ」
にやりと不敵な笑みを浮かべ、どこかの柄の悪いやくざのようだった。
「父上、正気ですか?
父上がこの國を憂えていることは存じておりますが、
まさか庶民の生活を知るために、我が家に庶民の娘を入れようなどということですか?」
父は家のために利益のならないことはやらない。
貧乏人を助けたいなどという慈善家でもなければ、おもしろいからといって庶民を受け入れるような好事家でもない。
「どのような意図がおありですか?
それによって私も、婚約者殿への態度を決めないとならないので」
「さて……お前は、宮ノ杜を知っているか?」
「……父上。いといけない子供でもその名を知っていることを私に聞くとは、馬鹿にしているのですか?」
「いいや、ただの確認だ。
その宮ノ杜の息子が我が隊にいることも知っているか?」
宮ノ杜の息子。
確か、父の部隊の連隊長にいるという話は聞いたことがあった。
宮ノ杜は特異な家だ。
決して由緒ある家とは言い難い。しかしかの家を指して名家という言葉を使うことも不遜ではない。
一代で築かれた、立身出世の物語のような家。
その家の当主はいろいろな素質を欲して、妻をさまざまところから迎えた。
父の部下の宮ノ杜の息子は、京都の茶道家元を母に持ち、財閥の御曹司でありながら、軍属になった酔狂な男だ。
もし自分が彼の立場なら、よかったのにと思ったこともあった。
実際、その件の人物を目にしたことは数回しかない。
父を訪ねてきたおりに、廊下ですれ違ったとき、どこぞの屋敷で開かれたパーティーに参加した時に目にしたことがあったくらいだった。
記憶の片隅にある容姿を思い出すのは少しの時間を要した。
自分よりも5つほど年上で、兄と同じくらいの年齢であった。
しかしお世辞にも優秀と言い難かった兄と比べ、彼は幼年学校、士官学校、そして陸軍学校を首席で卒業したと聞いた。
父も「あやつくらい我が息子が優秀であったら」と零すほど、父も目をかけていた。
「その宮ノ杜と私の縁談がどのように関係あるのですか?」
父に向き直り、本題に入る。
「この縁談は、宮ノ杜の当主のたっての希望だ。
それもお前を名指しで」
「解せませんね。
私は宮ノ杜の当主と面識もありませんし、そもそも名指しされる謂れがない」
私の指摘を参ったという顔で聞く父を、私は自制心を総動員して、苦々しげな表情を浮かべないようにしていた。
「そうだな。お前を名ざしというのは嘘だな。
我が家に縁談が来たといった方がいい。
宮ノ杜の当主は高齢だ。
我が息子を生きている内に、出世させたいと考えたらしい。
そのかわりに我が家に宮ノ杜とのつなぎをくれるようだ」
父の口ぶりでは、宮ノ杜の息子に近々、家督が譲られるようであるが、未だ一個連隊の隊長では体裁が悪い。
本格的に権限が移譲される前に、二個連隊の連隊長に就任し、そして昇進の足がかりを築きたいらしい。
そのためには懇意にしている父の力が必要なのだろう。
父が宮ノ杜ために用意するのは、連隊長、昇進。
宮ノ杜が父のために用意するのは花嫁。
はっきりとした利害関係が見えてきた。
「利害の関係は把握しました。そろそろ私の相手について教えてもらえませんか?」
「よくは知らんが、縁談をもってきた執事の話では、当主の専属使用人を務めたこともあるらしい娘だ。
歳は18。
東北の方の出身らしい。気立てもよく、当主自ら話を持ってくるところをみると、よほどお気に入りと見える。
先日の身分のことを気になさるのなら、養女にしましょうかと言っておった。
養女はいいと断ったが……」
「父上の判断は適当であったと思います。これ以上、宮ノ杜に恩を作るのは関心しません」
宮ノ杜の娘をもらうことは社交界ではかなりのステータスになるが、場合によっては華族の娘をもらうより厄介になる可能性があった。
父の手前、口には出さなかったが、養女とはいえ宮ノ杜の娘をもらえば、宮ノ杜の意向を受けたものが入ってくることもありえる。
また当主のお気に入りという言葉にも引っかかる。
お気に入りという名の当主のお手付きかもしれない。
浅慮な父のことだ、そこまで考えてはいないのだろうが、父が欲を出して、養女にしろと言わないのが幸いだった。
「兄上にはすでに細君がいらっしゃいますから、私というわけですね。
弟たちでは心もとないですし、すでに私は外務官僚ですから、身分的にもあちらに失礼にならない。
此度の縁談、我が家にも得るものが多いということですね。
わかりました。この縁談進めてもらって結構です」
「本当にお前は理解が早くて助かる」
「それが唯一の取り柄ですから」
と、自嘲めいた返答をした。
それから間もなくして、私の縁談は組まれた。
帝都でも有数のホテルに場も設けた見合いは恙無く終わった。
そのときの、のちに妻となるはるの印象は、今思えば驚くほどない。
終始、俯きがちで、緊張しているのだと宮ノ杜の当主は言ったが、私の目からみて緊張とは、ほど遠いものだった。
感想としては、打ちひしがれているという感じだった。
年頃の娘だ。
恋人の一人や二人いてもおかしくない。
それ以前に、自分もこの娘に何の興味も持っていなかった。
父も田舎娘だ、しばらく我慢をして後から、羽目を外せと言っていたからか、はじめから妻として見るつもりがなかったのだろう。
これから添い遂げるというのに、あとから思えば、なぜここまで無関心でいられたのだろうと感心する。
この日は努めて、はるに優しく話しかけた。
梅雨に入る前、私とはるの縁談は整えられた。
宮ノ杜の者ではないのに、はるは立派な結納、結婚式をさせられた。
それは私からみれば、これからの人生を墓場で過ごすための、代金のようであった。
はるは、大人しい、控えめな女であった。
身分主義的な父母や兄弟たちの冷たい視線があったが、それにもくじけず健気に私を支えようとしていた。
私も新婚の手前、はるには優しくしていた。
打算も大いにあったが、健気な女は嫌いではなかった。
「はる、勇殿から聞いたが、君は日記を書くらしいね、これをあげるよ」
私ははるに一冊の日記帳をあげた。
「結構、値が張ったんだよ」と差し出すと、 はるは、日記帳を震える手でそれを受け取った。
彼女がこの家に来てから、一度も日記を書いているのを見たことはなかった。
偶然、宮ノ杜の息子にあった時、はるが日記を書いていたことを知った。
そのときは結婚して忙しかったから、書いていないのかと思ったが、日記を受け取るはるをみて別の理由があるようだった。
「なぜ日記を書かないの?」
言葉に出してから気づいたが、まるで責めるような響きがあった。
このごろ彼女の迂闊さがうつったのではないかと思うような失敗をよくする。
今回もまるで詰問しているようだ。
努めて「責めているのではないよ」と優しい声で言い、彼女の肩を抱き寄せた。
一瞬であるが、彼女は抱き寄せると、いつも身を固まらせる。
はっきりとした拒絶。
隠そうと思っても、体は正直だ。
抱き寄せようと、交わろうと、彼女は頑なだ。
優しくしても、労わっても、甘い言葉をかけようとも、そして、どんなに月日が経とうが、彼女は芯から打ち解けない。
きっと彼女を飽きないのはこの態度のおかげなのであろう。
それなりに女の扱いに自信があった私としては、はるの態度は攻略対象としては格別であった。
はるの反応を日ごろは楽しいと思うのだが、今日はなぜか面白くなかった。
「別に理由なんてないんです。ただ書く気になれないのです」
「書く気になれない?はるは、いつから日記を書くようになったの?」
「小学校の時、先生が日記を書くようにとおっしゃったことがあるんです。
この中で、女学校に進学できる人は少数だろうと。
進学できない生徒に先生は日記を書くことを進められて、どのような立場になろうとも自分の言葉を大切にしなさいと。
でも日記を書こうとすると、辛くて……」
「この家がいやかい?
父も母も兄弟たちもお世辞にも君には優しくないしね。
それは私の不徳だよ。ごめんね、君に辛い思いばかりさせてね」
「違うのです、あなたのせいではないの。ただ……」
「ただ?」
「思い出が辛いのです」
それ以上ははるは、なにも言わなかった。
思い出が辛い。
その言葉の意味するところがひどく気になった。
はるの過去に何の興味ももっていなかった。
はるは、生娘であったし、結婚する前に、勘ぐった当主のお手付きという線はなくなってから、
彼女に過去というものに全く興味を払っていなかった。
『思い出が辛い』
日記、思い出、辛い。
ばらばらのキーワード。
それらがつなぐのはなんだろう。
その言葉の意味するところ。
はるの過去が初めて、私が彼女に興味を持つきっかけであった。
あとがき
遅くなってごめんなさい。やっとこさ、続きのアップができました。
うーん、まだ暗い。とういうか暗い話です。
それに不倫臭も漂ってない?この続きはお楽しみにということで今回はここまでです。
オリキャラですが、名前を考えてなくてごめんなさい。
このまま「私」で話は進めるつもりです。
一人称の話はあんまり書いたことはないので、ドッキドッキですが、最後まで乞うご期待!!というところです。
いまのところもう少し続かせる予定です。三話では終わりませんので。ホントごめんなさい。
御戻りはブラウザバックで。