水に燃える蛍


 奥州の秋は早い。蒸し暑い夏は盆と共に過ぎ去り、風が心地よく吹いている。冬将軍が治めるこの平泉にもうすぐ冬がやってくる。
 泰衡は柳ノ御所でいつもどおり書状を読み、仕事に勤しんでいた。彼の目の前にあるうず高く積まれた書状は各地に放った部下の報告書であった。そこには平家が壇ノ浦で負けたこと、頼朝が弟である九郎を壇ノ浦で抹殺しようとしたことなど詳しく書かれていた。
 堆積した書状の中から一つの冊子を取り出した。それは、源氏の神子についての報告書を一冊の本として綴じたものだった。
 源氏の神子。木曾義仲との戦いのさなか突如現れた戦神子。源氏の神子が現れたおかげで平家の滅亡は決まった。人が望んでもあまりある力を秘めし、異境の存在。聖なる力で怨霊を封じ、洗練された剣さばきで意に染まぬものを切る。
 泰衡は何度もその報告書を読み返した。これから、ここ奥州は鎌倉と戦う。源氏の神子と九郎の力は必要だ。
 戦慣れのしていない奥州軍には戦上手の九郎の力は役に立つ。
 鎌倉に巣くう異国の神に対して、源氏の神子は役に立つ。
 すでに、泰衡は九郎一行を奥州に迎え入れるため、郎党の銀を迎えに寄こした。御館も九郎を迎え入れることを承諾している。
 すべては始まっている。平家が京を追われ、源氏の勝利が見えたころから泰衡は準備を始めていた。御館のように純粋に九郎の活躍を喜べるほど単純ではない。頼朝の影に潜む異国の神は必ずこの奥州を毒牙にかける。泰衡は四代目としてこの奥州をなんとしても守らなければならない。それが、幼き日に父と約束した、泰衡のすべてだった。
 ふと、泰衡は外を見た。すでに子の刻は過ぎ、あたりは深い暗闇の支配であった。そこに小さな光が見えた。泰衡は何かと思い、仕事していた部屋から出て、その小さな光を追った。小さな光はふらふらと飛んで、やがて庭の植え込みに止まった。
  「蛍か…」
 小さな光は植え込みの上で消え入りそうに、しかし、しっかりと光っていた。
  「つい最近までかなりいたのだが」
 泰衡はそっと小さな光を捕まえた。九郎がこの奥州にいた頃、よくこうやって蛍を捕まえて遊んだ。夏の夜、空いっぱいに飛ぶ蛍はまるで将来の希望のようだった。あのようにたくさん光り輝いたものが幼いときの自分にはまだあったような気がした。
 手の中で蛍は淡い光を放っている。昔はあれほどあった光は今となってはこれしか残っていない。九郎が去り、泰衡も大人となった。できることとできないことが見えた。もはや、無邪気に夢を見ることもない。
 泰衡はそっと蛍を放した。蛍はまたふらふらと飛び、やがて見えなくなった。 もうすぐ、すべてがやってくる。九郎も源氏の神子も鎌倉の神も。源氏の神子はことのほか役に立ってもらわなければならない。異国の神を滅ぼすために。
  「すでにたくさんのものを犠牲にした。もはや、一つの希望も必要ない。すべては必然だ」
 泰衡は、上着を翻し、そしてそのまま闇に溶けていった。

あとがき


    わが恋は 水に燃えたつ蛍々 もの言はで 笑止の蛍
 私の恋の思いは、水のほとりで声も立てずに光っている蛍、蛍みたいなものだ。何も言わないで、可哀想な蛍

 この和歌を見たとき、泰衡だ〜と思って書いてみました。
 恋の歌なのに全然、恋の話でなくてごめんなさい。
 泰衡の周りには誰もいなくなって、こぼれ蛍になってしまったという雰囲気を感じとってもらえたら嬉しいです。