偽りなき思い

 
 昨夜の出来事は鳩羽を思いのほか荒れさせた。
 怒り、悲しみ、後悔。それらの感情が見えない刃で鳩羽を傷つけた。
 二度と間違えないと誓った。だがそのための行動がすべて裏目に出る。よくよく自分は運がないらしい。
 あれから鳩羽はどうやって自室に戻ったか、ろくに覚えていなかった。
 ただ戻ってきてから浴びるように酒を飲んだ。
 忘却に投げ込んでしまいたい春秋とのやり取り、瞬きほどしかなかった妖ノ宮との邂逅。心にもない鳩羽の言葉。
 それらがぐるぐると思考を廻り、苛み、支配していた。
 それから鳩羽は仮御所の中をさまよっていた。
 初めは酒を覚ますため。
 しかし頭にかかる靄のようなものは晴れなかった。
 何か目的があるはずもなく、たださまよっていた。
 人の訪れもない東の一室で鳩羽は足を止めた。
 未だ夜明けは遠い。吐く息は白く、寒さを表わしていたが、その身は燃えるように熱く、心は凍えるように寒い。
 障子を開け、部屋の中に転がり込む。鳩羽は畳の上に身を投げ出した。
 心はいささかも酔っていないのだが、体はいうことをきかなくなっていた。
 鳩羽は横になったまま、顔を上げた。普段なら行儀の悪いと自分を責めそうだが、いまはどうにでもなれという気持ちが強かった。
 鳩羽はふと顔を上げた。
 部屋の奥は塗籠になっているらしく、どうやらここは物置部屋らしい。
 酒臭いままでいるわけにもいかないので鳩羽は此処で酒を抜こうと休むことにした。


 カタン。
「誰だ!」
 ほんの小さな音であったが、鳩羽は物音に過剰に反応した。身を起こし、腰に手をやったが、生憎、刀は座所に置いてしまった。不注意を呪いながら、音のした方に近寄り、塗籠の戸に手をかけた。
「お願い。開けないで」
 懇願する響きを持った声であった。だが、その声色は鳩羽の記憶に鮮やかに存在するものだった。
「……妖ノ宮」
 今一番会いたくて、そして会いたくない人の名を鳩羽は口にした。ここに妖ノ宮がいる。どちらともその戸を開けようとしなかった。戸は堅く閉じられている。
鍵が掛けられているのではない。お互いがこれ以上踏み込まないように戸が存在しているようであった。
「妖ノ宮」
 もう一度、鳩羽はその名を呼んだ。
 塗籠からは何の返事もなかった。
 鳩羽は空虚であると思っていた身の内が熱くなるのを感じていた。ほんの少し前、春秋に妖ノ宮に何も思うところはないと宣言した口がその御名を呼んでいる。
 しばらく、沈黙がその場を支配した。
 鳩羽は空虚な心から湧きあがった思いを少しずつ言葉にしていった。
「妖ノ宮。そこにいるのですか?」
 隔たる戸に問いかける。鳩羽の問いかけに妖ノ宮は答えない。先ほどあれだけのことを言ったのだ。自分の声も聞きたくないのだろう。このまま何事もなく、立ち去った方が彼女のためになるのだろう。
しかし鳩羽の理性は悲鳴を上げていた。狂おしいほどの飢餓にも似た感覚がじわじわと喰いつくすように染み込んでいく。
「鳩羽、どうかこのまま立ち去ってください。私とあなたのためです。どうかこのまま」
「妖ノ宮。あなたはわたしを恨んでいますか?」
 鳩羽は戸を背に座りこんだ。鳩羽には見えないが、戸を隔てた妖ノ宮と背中ごしになっていた。
「私が何を恨んでいると思いますか?」
「後見人として春秋からあなたを守ることができなかった。私を本紀殿から守るために、あなたは春秋に下られた。そうであるのに、私のやっていることは、あなたの故郷を滅ぼし、帰る場所さえも奪おうとしている。そして一番罪深いのは……このようなひどいことを強いている自分があなたを愛してしまったことだ」
 鳩羽の言葉に虚をつかれた妖ノ宮は床に手をついた。
 今になって愛しているなどと聞きたくなかった。昔とは違う。春秋に体を開かれ、綺麗な身ではない。鳩羽の気持ちに純粋に答えることはもはやできない。彼ほど自分は綺麗ではないのだ。
「私たちの関係は過去のものです。私たちの間には今はなにもないはずです。今や私は春秋様の后。あなたの行動は艶葉のためのもの。それなのになぜあなたを恨むでしょうか。それに当時、臣下であったあなたを気にかけ、私が敵に膝を折ると思いますか?それはあなた自惚れです。あなたを気にかけることなどありません」
 震えてしまいそうな声をなんとか抑え、気丈で残酷な言葉を吐き出した。きっとこの言葉で鳩羽は傷ついてくれるだろう。
 彼は誠実な人だ。いつまでも後悔などに囚われてほしくない。自分のことなど忘れ、願うことなら幸せになってほしい。そのためならどんなに恨まれようと構わない。
 だが願いとは裏腹に妖ノ宮の涙は頬を伝い、床に点々と染みを作っていく。
 鳩羽が立ち上がったのが気配で分かった。このまま出て行ってくれればいい。
 妖ノ宮は振り向き、戸に縋った。鳩羽には見えないから、このような行動も許されるだろう。去っていく鳩羽の気配を少しでも感じ、そしてこの思いを封じ込めるために。
 しかしすべてを隔てていた戸がいきなり開かれた。
 勢いよく開け放たれたことによって、妖ノ宮はバランスを崩し、倒れ込んだ。
 だが衝撃はこなかった。冷たい床にぶつかることもなく暖かいぬくもりが身を包んだ。
「あなたが私のことを愛していなくてもいい。だが私はあなたを愛している。それが偽りなき私の思いです」
妖ノ宮は鳩羽がどのような表情をしているのか見えなかった。鳩羽の思いと熱い腕によって身と思考を硬直させた。
 鳩羽と会えばすべて終わりになるだろう。妖ノ宮はそう悟っていた。
 偽りはなんと脆いのだろうか。
「なぜ泣いているのですか?」
「自分の心に泣いています。あなたを愛してしまったことに」
 妖ノ宮は意を決し、鳩羽を見上げた。
 最後に会ったときよりも大分やつれていた。その頬に指をすべらせる。思えばこのように触れることもはじめてであるのになぜか懐かしい。
 鳩羽が頬をすべる妖ノ宮の手を捕らえた。
「私はきっと地獄に落ちるでしょう。二度も主君を裏切るのですから。ですが、あなたを私は誰よりも代え難いものだと思っている。何にも勝る最も愛しい人よ」
妖ノ宮を力強く引きよせると導かれるように口づけを交わした。始めてでそして最後になるだろう逢瀬。偽り無き思いの果て。その最後が来たことに妖ノ宮は涙を流し、そして喜んだ。





 昨夜のやりとりののち妖ノ宮の姿が見えなくなっていた。侍女たちが、方々を探しているが未だ見当たらない。
 侍女たちの騒ぎ声が聞こえる。どうやら家出のお姫さまが返ってきたらしい。
 春秋は文机の書類から目を上げた。目の前に立つ存在を認識するのに数秒時間を要した。
「えらく変わったな。何があった?お后さま」
「何も」
 素っ気なく夫に反応した妖ノ宮はどこまでも美しかった。以前から美しかったが、一晩でこのようにガラリと変わるものだろうか。これまでは百合のような印象であった。春秋に身を任せる様が百合の首が垂れる様に似ていて、たよりなさげに見え、春秋の嗜虐心を常に誘った。
 だが今は、例えるなら宝石のような美しさだった。無機的で生命が持つ美しさを感じることができない。完全なものになり下がってしまっていた。
「春秋様。神流河を滅ぼしたら、鳩羽を殺すおつもりでしょう」
 唐突に出た言葉は春秋を驚かせた。
 今でこそ鳩羽は役に立つ存在だが、戦争が終わればその限りではない。武人とは戦争あってのもの、その後に使い道のある武人は数少ない。鳩羽はおそらく平時では役に立たないだろう。すべてが終わった後に「殺す」という選択肢は確かに存在していた。
 妖ノ宮の言葉よりも、春秋は身の内にあった考えを見透かされたことのほうが気になった。
「候補の中にはある選択肢だな。だがなぜ、そなたがそれを気にする」
「春秋様、もし鳩羽を殺すとき、私にその役目をさせてください。彼を殺すのは春秋様でも譲れないの」
 「なぜに」には答えなかった。ただ、自分の気持ちしか答えない。
「私、わかってしまったの。鳩羽を愛していることを。それがだれにも変えられないことも。彼を誰にもやりたくないの。それに、春秋様、もう私、彼以外に抱かれるのは嫌なの。ごめんなさい」
「鳩羽に抱かれたのか?」
「ええ」
 嬉しそうに妖ノ宮は答えた。
「それは残念だ。そなたをもう抱けないとは。」
「鳩羽はきっと神流河を滅ぼすわ。その後、彼は私が殺すわ。そしてその後、私を殺して」
 春秋に請う姿は童女のようで無邪気だった。
 言葉とは裏腹に、無理やりに妖ノ宮を抱くことはこれからも可能であろう。
  しかしどんなことをしても彼女はもう傷つくことはない。何を言っても、どのように脅しても真実を知った者は惑うことはない。
「よかろう。すべてが終わったら、そなたを殺そう。鳩羽を使える駄賃としては相応だ」
「ありがとう」と妖ノ宮は屈託なくほほ笑んだ。このような感情を向けられるのは初めてであった。
 これから鳩羽はより従順に、妖ノ宮はより誠実に春秋に仕えるだろう。すべてが目論みどおりにいかなかったのは残念だが、結果は出せるだろう。
 神流河の征服。艶葉の再興。
 この二つを成せるだけでよしとしよう。
 すべてが成就するとき、そのときは、二人を願いどおりにしてやろう。それが主君としての務めであろうから。

あとがき

 やっと完結しました。こんなに伸ばしてすいません。
 当初の予定通り、救いもかけらもない話です。
 このあとの話はありませんが、ちょこっとだけ書くと、神流河の滅亡後、妖ノ宮が鳩羽を手にかける→春秋が宮様を成敗→春秋の天下になるといったところでしょうか。
 おそらく、情死という形を避けるため、春秋が宮を処刑すると思います。敵の手にかかった=英雄ということになりますからね。
 鳩羽くらいになると、いくら主人が邪魔と思っても、きっと民衆からは崇められていそうですし。
 ゲームとことなり、当サイトではSっ気たっぷりの春秋です。
 妖ノ宮はこれからも少しづつ書いていく予定なので、暖かく見守ってください。