別離

 
  艶葉が南風を平定すると神流河は、拠点である百錬京の防備を固めた。百練京は、平地に立てられた京(みやこ)であるため、山城のような攻めにくさはないが、篭城という機能には特化している。その場所に籠城された以上、艶葉は、包囲戦しかとる道しかなく、その準備は着実に進められた。如何に、戦の天才と誉れ高い鳩羽であっても、京(みやこ)一つを攻め滅ぼすとなれば、それなりの時間と物資を必要とする。軍神と崇められようと鳩羽も人間であり、剣一本で戦をするわけでもない。幸いにも艶葉の兵力は神流河の兵力を圧倒しており、鳩羽と妖ノ宮を縁という絆で結んだ四天相克という混乱がより艶葉の状況を有利に進めてくれていた。
 百錬京の包囲戦の準備も佳境に入ったある日、春秋から突然、呼び出しがかかった。おろらく、今後の行軍日程についての下問であることが容易に察せられたが、手が空いたときでよいという言葉により、こまごまとした雑務を片付けてから伺うと返事をした。結局、鳩羽が参上したのは夜も更けたころであった。
「失礼します」
 鳩羽は、形どおりの挨拶をし、春秋の部屋に入った。すでに、酒やつまみが用意され、寛いだ姿の春秋が座っていた。春秋とは、ほかの家臣がいるなかでしか、会っておらず、差し向かいで会うというのは久しぶりであった。
 春秋は、手招きをし、鳩羽を眼前に呼んだ。鳩羽は、春秋の眼前に座り、差し出された盃を受け取った。
「此度のお呼び出しは何でしょうか?」
「いきなり本題か?もう少し、社交辞令を覚えたほうがよいぞ、鳩羽。そうでなくとも、お前は未だ独り身。それでは女人が寄り付かんぞ」
「武人でありますので、そのような気回しは必要ありません」
 鳩羽は、春秋の軽い警句を否定した。鳩羽の拒絶にも似た態度をとられた春秋であったが、その秘められた態度には反応しなかった。ただ、そうかと受け流した。
「今日、呼んだのはほかでもない。老いぼれの神流河本紀が、死んだらしい」
「本紀殿が…」
 鳩羽は、感慨深くその名前を発した。一時期とはいえ、同じ旗の下に集い、心情こそ異なりはしたが官僚という面においては、尊敬に値する人物であったと鳩羽は思っていた。その人物が死去したという情報は、鳩羽に思いのほか悲しい気持ちを抱かせた。
「そこで、私は、一度、艶葉に凱旋しようかと考えている」
「艶葉に、ですか?」
「そうだ。本紀が死んだいま、神流河の弱体化は避けられまい。そこで、私は、艶葉本領の結束を固めようと思っている」
 春秋の考えは、当主である春秋が艶葉に凱旋し、一気に神流河の艶葉支配を崩すということだった。すでに艶葉の独立は、春秋が出現したころからとげられつつあるが、実質的な独立までには至っていなかった。本紀は、艶葉に対する押さえの兵力を削減しており、また本紀の死去により混乱をきたしていることが好機だと春秋は主張した。
 鳩羽は、春秋の考えに賛同した。南風を平定こそしたが、安定にはほど遠く、なんといっても、鳩羽たちは侵略者であった。そのため、兵糧の供給を南風で行うのは危険と考えていた鳩羽はこの方策を歓迎した。これから、篭城する相手と戦う上では、なにより安定した物資の供給が確保させねばならなかった。艶葉を奪還できれば、艶葉から物資の供給が行える。神流河にいたころ、本紀に散々、兵糧の調達を苦労させられた経験から鳩羽は、万全を期して戦いたかった。二度とあのような後悔をしないためにも確実な基盤が必要だった。
「では、私は、別働隊を率いて、艶葉に戻るとしよう。妖ノ宮にも艶葉を見せたいしな」
 春秋の言葉に鳩羽は、盃を取り落としそうになった。
 妖ノ宮。
 忘れたと思っていた名を聞いただけで、こうも動揺する自分が情けなく、イラついた。鳩羽はつとめて平静を装い、話題を逸らそうとしたが、春秋に先を制された。
「我が后は、そなたの元主君であったな。そなたから見て、妖ノ宮は、今回の行動をどのように見ていると思う」
「私には、考えも及ばず…」
「ただの世間話だ。他意はない。元臣下の鳩羽の率直な感想が聞きたい」
「……おそらく、妖ノ宮は、此度のことすべてご存知であると思います」
「ほう。すべてとは、どこまでのことを指す。そなたが、宮に思いを寄せていることか?それともお前の身勝手な煩いで宮の故郷が滅ぼされようとしていることか?」
 春秋は意地悪い笑みを浮かべた。まるで、鳩羽が懊悩することを楽しんでいるように見えた。
「私と妖ノ宮のことは噂にしかすぎません。根も葉もないことを信じない方がよろしい」
「そうだ。あくまで、これは噂だ。根拠も無ければ、証拠もない。だが、恋心や愛情といったものに、果たして根拠や証拠があるものだと思うか?私に言わせれば、根拠や証拠があるほうがおかしいと思うぞ。感情というものは、須らく生きているものに備わっているものだ。妖だろうが人間だろうが、それこそ神にも感情というものはあるようだ。その万物に宿るものを説明しようとするのが人間だけだと聞く」
「おっしゃっている意味を理解しかねます」
 渋面を浮かべ、鳩羽は春秋の言葉に答えた。
「まあ、お前には解りかねるだろう。理由があるから、証明できるから本当だ、正しいことだというわけではないということだ。簡単なたとえでいえば、艶葉が神流河を倒すのはここにおるものは皆、信じている。その理由も多くのものが言えるだろう。だが、それが真実かといえば、そうでもない。艶葉にとっては真実(まこと)かもしれんが、神流河にとっては真実(まこと)ではない。それに、一年前にこのことを聞いたとして、如何ほどの人間が真実(まこと)だと答えると思うか?」
 春秋のことばは、鳩羽をますます苦しめた。迂遠な言い方をしているが、要は鳩羽と妖ノ宮との関係を言っているのだ。過去、鳩羽は、妖ノ宮を思っていた。しかし、現在はどうなのかと、遠まわしに聞いているのだ。
 それほどまでに噂は深刻であったのかと鳩羽は改めて思った。人の好奇心は、特によくない噂の方に注目が集まることが多い。春秋としては、家臣と后の醜聞を放置しておくことは、禍根になると判断しただろう。故に、今、聞いているのだ。その噂は本当なの、そうでないのか。人である以上、証明せよと。
 春秋と鳩羽の間には、もはや艶葉滅亡前の全幅の信頼というものも存在しない。あるのは、利害と服従だけ。乾いた、冷たい理由だけなのだ。そうであるのなら、ここで鳩羽が示す道は一つしかなかった。
「春秋様がどのようにお考えであるかわかりませんが、私は、妖ノ宮に一切の感情を抱いておりません」
「一切の感情。それは、愛情も憎悪もないということか?」
「そうです。もはや、私と妖ノ宮の間には、何もありません」
「しかし、お前と宮との間には、かつて、主君と家臣であった過去があるが、それも否定するのか?」
「あるのは、過去だけです。これからの先、私たちの道が重なることもなければ、言葉も交わすこともありません。それに過去とは、解釈の世界。所詮、それが真実になることもありません。私は、妖ノ宮に思うところなどない」
 鳩羽は、すべてを否定した。今、言った言葉が心情としては真実ではなかろうが、言った言葉が事実として証明されていくだろう。
 心の中を覗ける人間はいない。言葉にしたことしか人間は知ることはないのだ。鳩羽の心を知る人間などいなくてもよい。そうであるのなら、今、鳩羽がしなければならないことは、否定することであった。それだけが、事実として残ればいいのだ。
 緊張した空気が辺りを満たしていた。鳩羽の真摯な目を見つめていた春秋が、破顔した。
「私も疑り深くなったものだ。気を悪くしただろう、鳩羽。何かと雑音が多く、このような、言い回しをして悪かった」
 春秋は、悪かったと頭を下げた。鳩羽は、気まずさをこられて、春秋の行動を制した。

「だそうだ。妖ノ宮よ。鳩羽はお前のことを何も思ってないそうだ」
 急に発せられた言葉に、一瞬、鳩羽は反応できなかった。しかし、春秋の後ろで閉じられていた襖からカタリと音がし、鳩羽の心臓は止まりそうだった。戦では感じたことのない、言いようのない感情だった。
「いや、妖ノ宮もお前と同じように噂を否定しておったが、私も皆と同様、疑いの気持ちがあった。だが、すべては証明された」
 春秋は、遅くまで引きとめて悪かったと言い、退出を命じた。
 鳩羽は、のろのろとその言葉に従った。襖一枚隔てて感じる妖ノ宮に、今、言ったことがすべて嘘だと言いたい気持ちと、それと反対にすぐさまここから去りたいという気持ちがせめぎ合っていた。しかし、春秋の言葉が勝り、鳩羽の行動を決定づけた。鳩羽は、儀礼的なあいさつをし、部屋を退出した。