勝利の酒が振舞われ、人々は陽気にその勝利を満喫していた。艶葉の人間にとって神流河への憎しみは計り知れず、その反動から、いつも以上に浮かれていた。
 多くの者は酔いが回り、時刻が次の日になってしまっても、多くの者は未だ騒いでいる。普段このような時間、城で騒ぐのはもってのほかであるが、無礼講として主君が許していた。
このように人々が騒ぐのは、亡国となったという苦い記憶を消そうと必死の行動であったかもしれなかったが。
 その騒ぎの中心からずいぶん離れたところで、今回の勝利の立役者である鳩羽は静かに杯を重ねていた。春秋の座所の中でも人通りの少ないこの場所で鳩羽は一人、満月を肴に酒を飲んでいた。勝利の立役者として、初めは騒ぎの中心いたが、頃合いを見てこの場所に移動してきた。それは心情として、あのように騒げぬ自分が気まずく、気乗りしないことも手伝っていた。
 静かな場所に落ち着き、かなりの酒量を飲んでいた。だが、一向に酔いなど来ず、むしろ飲めば飲むほど鳩羽の意識は覚醒していくようであった。
「では、噂は本当なのか?」
 鳩羽は、ふいに聞こえた声に意識を向けた。どうやら、誰かがこちらに来るらしい。職業上、人の気配に敏感であったが、なぜか隠れもしなくてもいいのにその声から鳩羽は身を隠した。自分の行動を嘲りながら、さりとて人と会うのが億劫だったというのもあった。
 鳩羽がいるとは知らずに、二人の男は、酔いさましにこの静かな場所にやってきたようで、先ほど鳩羽が占有していた縁側に座ると、話をし始めた。
「ああ、侍女どもの話によると、本当らしい。まさか、鳩羽将軍と妖ノ宮が懇意の間柄だったとは。いやはや、世のなかとは面白いものですなぁ」
「しかし、あの妖ノ宮だぞ!その噂、いささか信じられん。将軍は、妖どもに敵意をもっているとは聞かんが、しかして好意的であるとも聞いたことがないが…。それに一時とはいえ彼女が将軍の主君でもあったことも関係しないのか?」
「だが、主君である春秋様にすぐさま下らなかったのは、なぜだと思う?多くの奴らは無骨な将軍だから筋を通したと納得しているが、私はそうは思わん。第一、妖ノ宮が主君といってもそれは仮のこと。実際、あの娘に権力なんぞあるはずもない。鳩羽将軍とて、神輿として妖ノ宮を担いだこと火を見るに明らかだ。また、主君としての質に関しても、妖ノ宮と春秋様と比べるなぞおこがましい。だから、鳩羽将軍は、妖ノ宮を思うが故に春秋様に下らなかったのではないかと専らの噂だ」
 (下世話な話か…。)
鳩羽は息をひそめながら、二人の話を聞いていた。当の鳩羽がいるとは知らずに、二人の会話は段々、エスカレートしていた。
「将軍と妖ノ宮は、恋仲であったとは…、意外としか言えませんなぁ。悪いですが、将軍はそちらの方では、あまり噂は聞きませんから」
「そこが、この話のおもしろいところ。未だ、妖ノ宮は将軍のことを思っているらしいと…」
「め、めったなことは言わないほうがよろしいかと」
 一人の男は辺りを見回した。しかし、もう一方の男は、誰もおらんさと軽く、相手も注意深さを笑った。
 妖ノ宮は、春秋の正室になり、その寵愛は厚いと聞く。そんな女性のことを軽々しく話すことは、憚り多いことであるが、神流河の姫であることや半妖であることがあって侮蔑的に語られていた。
「あの娘は、春秋様に寵愛を受けておきながら、気もそぞろらしい。侍女たちの話では、未だに将軍のことを忘れず、毎夜、涙にくれているとか。それにあの娘、命乞いをして春秋様に下ったと言われておるし、それに卑しい半妖のくせに春秋様のお心に添わないとはなんたることか!」
 その言葉を聞いた瞬間、鳩羽は、杯を叩きつけるように置いた。かつんと響いた音に、二人の男はびっくりしていた。二人の男は、気まずそうに酔いがさめたので戻りましょうかなどと言いながら、半ば逃げ出すように走り去っていった。
 鳩羽は、杯を置いた音で、二人の闖入者を退けた。鳩羽は、妖ノ宮をあのように軽々しく扱われた怒りと二人の闖入者を追い出すために使った精神力は、思いのほか鳩羽を疲れさせ、柱に凭れかかった。
 妖ノ宮と鳩羽が恋仲である。
 その噂は半分、本当であり、半分は嘘であった。そもそも、お互いに気持ちを口にしたことは、一度もなかった。だから、恋仲ということは嘘である。しかし、鳩羽は、妖ノ宮のことを愛していた。四天相克という歪な運命が結んだ縁であったが、健気に自らの境遇と戦う妖ノ宮を主君として尊敬し、そして、女性として愛していった。鳩羽は、春秋との戦いの後に、気持ちを伝えるつもりだった。
 だが、その機会は永遠に訪れることはなかった。古閑のおとり作戦にはまり、妖たちの大軍を切り伏せ戻った鳩羽に待っていたのは、春秋に妖ノ宮が降伏したということだった。多くの者が、命惜しさに降伏したのだと怒りに震えたが、鳩羽にはそう思えなかった。春秋の傍で、泣き崩れる妖ノ宮の姿を見て、すぐに悟った。妖ノ宮は、なにか脅されたのだと気づいた。それが、鳩羽の命であったことを知ったのは、大分、時がたってからだった。
 あのとき、お互いに謝罪の言葉しか口にしなかった。しかし、あのとき初めてお互いに思い合っていたことを鳩羽は知った。一度も好意を伝えたことはなかった。だが、自分の命を惜しむほど妖ノ宮は鳩羽を愛してくれていた。
 いまでも思う。なにゆえ自分たちはあのようにしてしか、互いの気持ちを知ることができなかったのだろうかと。泣き崩れる愛しい人にかける言葉が謝罪の言葉なのだろうかとはじめて運命などという不確かなものを呪った。
 今でも、眼を閉じれば、悲しげに鳩羽を見つめる妖ノ宮の姿が浮かぶ。春秋の正室となった妖ノ宮に会うことはなかった。最後に見たのは、戦ののち春秋に手を引かれていくときだ。そのときの鳩羽を振り返ったときの顔ばかり思い出される。声にはならず唇が鳩羽の名を告げ、泣きだしそうな瞳で鳩羽を呼んでいる。
「愚かなことだ」
 何度となく声に出した言葉だ。言ったところでなんの意味もなさない。ただ、自分が愚かなことを再確認したいだけの自己満足としか言いようのないものだ。しかし、これ以上に鳩羽と妖ノ宮を表わすふさわしいことばもなかった。
 お互いを思いあう故に、深みに嵌っていく。その懊悩を鳩羽は戦争でしか癒すことができなかった。戦っている間は、妖ノ宮のことも忘れられる。それが、妖ノ宮を苦しめることになり、春秋の思惑にのることになったとしても、鳩羽にはもはや止められなかった。
 麻薬のごとき、悲しい思い出は鳩羽を少しずつ蝕んでいく。
 鳩羽は、愚かな追想を消そうと盃を煽った。