悲しい契約


 戌の刻。
 夜も深まり、本来ならすべてが静まる刻(とき)であるのだが、座所から勝鬨の声が聞こえる。熱に浮かれた声は、猛々しく、狂乱に満ちている。
 その声を妖ノ宮はぼんやりと聞いていた。
 空気は声に呼応して熱いように感じる。だが、妖ノ宮の心は冷たく、祝事であるのに悲しみしか湧かなかった。
 現実と心の矛盾。この矛盾を解消する理由を妖の宮は冴えたる月にもとめた。そうでもしなければ、息もできない悲しみから逃れることなどできなかった。
 侍女が、合戦の勝利を告げにきた。艶葉が神流河に大勝したのかと頭の片隅で、報告の内容を理解した。しかし、なぜか事実が他人事のようにしか感じられない。
 今すぐ座所を出て動き、臣下に祝福の声をかけに行かなければならない。
 艶葉の后である自分は、言祝ぎを夫である春秋にいう必要があった。地位に伴う責務を果たさなければならないと考えていた。しかし、彼女の目からは、涙しか零れなかった。
 障子に凭れかかり、月を眺め、涙を零す。
 その姿は、得も言われぬ美しさであった。さながら、月を恋うて涙を流したお伽の姫のようで遠巻きに彼女の姿を見た侍女たちは息を飲んだ。同性のものが嫉妬を持たずに、手放しで称賛することは少ない。それほど、今日の妖ノ宮の姿は異常だった。

 現在、亡国であった艶葉は、妖ノ宮と艶葉春秋の婚姻、軍神加治鳩羽の帰還により、不死鳥のごとく蘇り、次々と各地の勢力を従えていた。特に、因縁浅からぬ神流河に対するものは苛烈を極め、本紀の支配に多大な影響を与えていた。このたび合戦の勝利は特に大きな意味をもった。この勝利により、南風地方の権益は固まった。
 しかし、后は止めどない涙を流し、異常な美しさをたたえている。
 侍女たちは、狼狽をしていた。
 そこに主君、春秋が入ってきた。侍女たちこれを幸いとそそくさと退出した。

「何を泣いている」
 声をかけられて、妖ノ宮は、声のする方に振り向いた。
 春秋は、妖ノ宮の様子を見て苦々しい表情を浮かべた。常に、王という役職上、誰かに意識される境遇にあった春秋が、このようなかたちで存在を無視されたことは初めてであった。
 妖ノ宮は、声に反応し、儀礼的に動く。
「いいえ。なにも…。御着替えも手伝わずに、申し訳ございません」
 妖ノ宮は、深々と手を付き、頭を下げた。だが、春秋は、妖ノ宮の顎を持ち、顔を上げさせた。その無理な行動に宮は、顔を顰めたが、春秋は、嘲笑を浮かべた。
「侍女共がなんと言っているか知っているか?『宮さまは故郷を思って泣いている?』と言っている。だれもがお前の姿を見てそう噂をしている。そんなわけがあるか!お前に故郷を思う気持ちなどあるものか。お前が泣くのは、今も昔もあの…」
「言わないで!」
 妖ノ宮は、春秋の手を払ったが、春秋をほんの少しだけよろめかせただけだった。
「そうだ。お前は、鳩羽のことでしか泣かない。あのとき、自らの命が危機に瀕しても、決して膝を屈することはなかった」
 春秋は、妖ノ宮の手をとり、抱き寄せた。
 その行動は乱暴なもので、手を捻りあげたりもして、妖ノ宮から苦痛の声が上がった。その悲鳴を聞いても、春秋は、クツクツと笑っただけだった。
 労わることも謝罪することもない。妖ノ宮の反応を楽しんでいるだけだ。それが苦痛であってもかわないという様子で、春秋は妖ノ宮の腕を握る手に力を込めた。
「しかし、お前は、今や私の后だ。あのときの約束を覚えているだろう」
 春秋は、耳許である言葉を告げた。その告げられた言葉に、妖ノ宮の強張った体は一気に力が抜ける。

 春秋との約束。
 それは、妖ノ宮が、春秋のものになる代わりに、鳩羽を助けることだった。春秋は、鳩羽と数回、邂逅して、もはや自分のもとにすんなり帰ってくるとは思わなかった。
 故に、春秋は、狡猾な罠を用意した。
 番う鳥が、お互いを思いあう故に陥るであろうその罠を。
 古閑、艶葉連合軍は、古閑を囮に春秋は本陣の侵入した。
 次々と周りの者が殺されるなか、総大将として妖ノ宮は、決して春秋に膝を屈さなかった。見せしめに誰が殺されようと、たとえ自分が殺されようとこの男の主張を聞き入れるつもりことが伺えた。しかし、春秋は、あるものを宮に突きつけた。
「これが何かおわかりかな?妖ノ宮」
 差し出された一巻の書状。それは、彼女の大叔父である本紀の筆であり、その内容は、鳩羽を謀反人として処罰する旨を書いたものだった。
 その書状を見て、妖ノ宮は大きく目を開いた。
 妖ノ宮の様子に薄い笑みを浮かべながら、春秋は最後の言葉を耳許に囁いた。
「すでに本紀は、鳩羽を処断する策を弄している。鳩羽は艶葉に戻る以外に道はない。お分かりかな?それがあいつにとって一番の幸いであるということを」
 春秋の言葉は、狡猾に宮を追い詰めた。刀で脅すよりも苛烈に、残忍に、言葉を繰り返した。
 それが、鳩羽を春秋のもとに戻すための最善の方法であった。そして、妖ノ宮に首を縦に振らせたのだ。
 
 鳩羽が本陣に帰ってきたそれから数刻たってからだった。春秋の隣にいる主君の姿に絶望する鳩羽、そしてその姿を取らせる原因になった妖ノ宮。
 お互いが自らの非力に嘆いていた。鳩羽はなぜもっと早く帰ってこれなかったのか、そうすればこのような光景を見なくてすんだと絶望した。また妖ノ宮は、なぜもっと権力がないのか、権力があれば鳩羽を守ることができたのにと後悔していた。
 お互いを思いあう故に、生まれた悲劇。
 そして、これからこの悲劇がどんな悲劇を生んでいくのだろか?
 すでに、このことが原因で鳩羽は破壊活動をまき散らし、神流河を滅亡の淵にまで追い詰めた。妖ノ宮もその枯れえぬ涙が人の口の葉に昇り、月姫のようだと囁かれた。当然、夫である春秋は月姫をものにしたと人から羨まれる存在となっていた。
 すべては、春秋のために動いている。
 妖ノ宮は、抱き寄せられても身を固くしている。
「さて、我が后よ。ほかの男を思って涙するのはやめていただきましょうか。そして、過去を思い出すことも。あなたがやるべきことは今だけを感じるだけでよい。今宵は私のために涙を流していただきましょうか」
 ぞっとするほど優しい手つきで妖ノ宮の頭をなでた。それは、まるで幼子が人形の頭をなでるようであった。
 その手に妖ノ宮は身を震わせながら、もはや涙が枯れ果てた目を静かに閉じた。